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降車ボタン [Diary]

バスで家に帰る途中、自宅最寄りのバス停に近づいて降車ボタンを押そうとしたところで、別の人がボタンを押そうとしていることに気づき、思わず押すのを遠慮してしまうことはありませんか?

わたしはあります。

小さな男の子がボタンを押したそうにしていることに気づき、押すのをためらっているうちに結局誰もブザーを押さず(「ゆうたくん、ボタンにさわっちゃだめでしょ!」)、降車予定のバス停を通過したこともあるタイプ。



子どもって、ボタン押したいよね。



昔、どこに行く途中だったか、両親に連れられてバスに乗っていた幼稚園児のぼくは、あのボタンが押したくてたまらなかった。

ブザーが鳴り、あちこちにランプが点灯する。すげえかっこいい。

ボタンを押すのはぼくの役目だと早い段階で宣言し、そのタイミングが来たら確実に押せるよう常にスタンバイしていたけれど(しくじってはいけない)、「ねえ、まだおりないの?」と何度目かに確認しても「まだよ」という答え。

窓から見える道路沿いの風景は商店街から住宅街、畑から雑木林へと変化し、それでもまだ目的地には着かず、道路は次第に細く曲がりくねり、車内は暑く(夏だったのか冬の暖房がきつかったのかは覚えていない)、眠くなってきたし、なんだかちょっと気持ち悪いかも。



突然、後ろから肩をとんとんと叩かれ、驚いて振り向くと、それは白いひげをはやしたおじいさんだった。

「次の停留所で降りたいんだけど、ここからはボタンに届かないから、ボク押してくれるかな?」とおじいさんは言った。

もちろん、ぼくはブザーを押してあげた。

「いいよ!」と元気よく答えたのか、「はい」と賢そうに答えたのか、何も答えなかったのか(たぶんこれだ)、覚えていない。ただ速やかに、即座に力を込めてぼくはボタンを押した。

ビーという大きなブザーの音が鳴り響き(昔のバスのそれは、今のバスのマイルドな「ピンポン」よりずいぶん強い音だった)、赤いランプが一斉に点灯した。

「ありがとう、たすかったよ」

おじいさんぼくの肩をもう一度ポンと叩き、降りていった。

自分の力でおじいさんのためにバスを止めた。そのときの誇らしい気持ちを、ぼくは今でも覚えている。



もちろん、今思えばあれはおじいさんがぼくにブザーを押させてくれたのだ。

あるいは、ぼくと同じように、他人がボタンを押そうとしているとつい遠慮してしまうタイプだったかもしれない、おじいさん。

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プロセスを共有することに向かない人の共同作業 [Thoughts]

共同作業というと、いっしょに何かをつくること、プロセスを共有することと捉える人が多い気がする。

でも、世の中にはプロセスを共有することに向かない人間もいることを、ぼくは知っている。なぜなら自分がそうだから。

何かを作るときに、人と同じ道筋を通ることができない。人に合わせようとすると、あるいは特定の道筋を強制されると何もできなくなる。人と協力しながら何かを作るということがうまくできない。だいたいは全面的に人に合わせるか(ストレスたまる/力出せない)、一人で突っ走るか(嫌われる)のどちらかになる。

そんなタイプ。

でも、だからと言って自分は人との共同作業に向かないと、諦める必要はない。

プロセスを共有することに向かない人は、ひとりで何かを創り、そのアウトプットを共有すればいい。

その場合のアウトプットは、完成品である必要はないけれど、プロセスの途中段階(つまり「やりかけ」)ではなく、いったん形になったものがいい。自分の意思とその結果を形で示せるような。

プロセスは個人で行い、人にはその結果(アウトプット)を提示し、意見を求め、次のアウトプットに反映する。あるいは同じジャンルの他の人のアウトプットを踏まえ、別のアウトプットにつなげる。

これだって、立派な「人との共同作業」だ。

もちろん、それは口で言うほど簡単なことではない場合もある。世の中の、特に組織の中で共同作業をリードする立場の人は、たいていプロセスを共有することに長けた人だ。仲間と議論を交わしながらいっしょに考えることができる人だ。

でも、プロセスを共有できない人だという自覚があるなら、自分は使えない人間だと悲しい気持ちになったりする前に、「プロセスではなくアウトプットを共有する」方法がないか、考えてみる余地はある。

仮に今いる場所がそのようにできていなくても、アウトプットする場所や方法は現代ではいくらでもある。

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『「箇条書き手帳」でうまくいく はじめてのバレットジャーナル』 [書評・書籍紹介]

バレットジャーナルに興味がある人に待望の本、『「箇条書き手帳」でうまくいく はじめてのバレットジャーナル』(Marie著)が明日(10月13日)発売です。

バレットジャーナルは、ライダー・キャロル(Ryder Carroll)氏によって開発された、アナログノートを使ったスケジュール管理・タスク管理のシステムです。

公式サイト:Bullet Journal - The Analog System for the Digital Age

「バレット」とはbullet。元の意味は「弾丸」ですが、箇条書きの頭の「・」などの記号のことです。だから「箇条書き手帳」なんですね。

いわゆる手帳術ですが、「紙の手帳に箇条書き」という言葉の響きからは想像できない、非常に奥の深いシステムです。タスク管理・スケジュール管理だけでなく、個人の生活の驚くほど広い範囲を扱えます。

『「箇条書き手帳」でうまくいく はじめてのバレットジャーナル』(以下「本書」)は、このバレットジャーナルの入門書です。



実は本書を献本でいただいたので、発売日前に読むことができました。
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著者のMarieさんが、セルフ・パブリッシングのKindle本『ちいさなくふうとノート術:ごちゃごちゃの頭を整理して楽しく暮らす私のノートの使い方』を執筆される際に、『アウトライン・プロセッシング入門』を参考にしていただいたからとのことです。

※ちなみに本書は大幅に改訂・増補されて、『ちいさなくふうとノート術』とはまったく別の本と言っていいものになっています。

Marieさんのブログ「Mandarin Note」はずいぶん前から知っていたし(語学学習で有名なブロガーさんという認識でした)、『ちいさなくふうとノート術』も素敵な本だったので、素直にすごく嬉しかったです。こういうことがあると、なんというか、ブログ書いたり本書いたりしてよかった、と思います。



本書の目次構成は以下のようになっています。
Prologue バレットジャーナルは、私の人生をよくしてくれる相棒
第1章 バレットジャーナルの作り方、始め方
第2章 私は、こんなふうに使っています
第3章 つくると便利な「コレクション」アイデア集
第4章 みなさんのバレットジャーナル、見せてください!
Epilogue バレットジャーナルをはじめて、いちばん私が変わったこと
さらに詳細な目次はこちら

バレットジャーナルの基本は、第1章で説明されています。公式サイトで解説されている内容のエッセンスが凝縮されています。これだけでバレットジャーナルを使いはじめることができます(もちろんノートとペンを用意してね)。

第2章では、上記基本を踏まえた上でのMarieさん自身の使い方が解説されています。このパートが何とも魅力的です。

バレットジャーナルの魅力のひとつは、(ハードがプレーンなノートなので)自由にカスタマイズできるという点です。この章では、Marieさん流のカスタマイズした使い方に触れることで、その魅力を感じられます(何にしてもカスタマイズ、パーソナライズっていいものです)。

特に「例」がリアルです。読者が、自分の生活の中にその手法やツールを組み込むことの期待が膨らんでくるような、生きた例です(これ、実際に書く立場でいうと、すごく手間と根気がいるのです)。

バレットジャーナルを使うことで、Marieさん自身がどんな影響を受け、生活がどう変わったかの記述がこれに加わることで、Marieさんという個人の生活の中にバレットジャーナルが息づいていることが感じられます。

ページがカラーであることと、狩野直子さんによる魅力的なイラストもこの部分の魅力を高めています。

第3章も、カスタマイズの魅力ですね。「コレクション」というのは、パレットジャーナルの基本モジュール(第1章で紹介されています)とは別に設けられる自由なコンテンツパートです。ここも、さまざまな実例が紹介されています(読書記録、買いたいものリスト、贈りもののログetc.)。自分だったら何を入れよう、という夢が膨らむ部分です。

そして第4章では、Marieさん以外のバレットジャーナルユーザーのさまざまな使い方が紹介されています。これが、ここまで紹介されてきたMarieさんのバレットジャーナルと、驚くほど印象が違うところがいい。ユーザーの個性を吸収する自由度とカスタマイズ性がよくわかります。

自由度が高い手法やツールほど、初心者の導入へのハードルは高くなってしまいがちです。「決まり」が少ないから、どうやっていいのかわからない、これでいいのかわからない、という感覚を抱くわけです。だから、いろんな人がいろんな形で自分の生活の中に組み込んでいる様子がうかがえる、というのはとても重要なポイントです。



そんなわけで、本書は非常にわかりやすく読みやすいバレットジャーナルの入門書であると同時に、いろんな角度からバレットジャーナルの魅力を伝えよう、伝えたいという気持ちが伝わってくる本です(そして、実際に伝わってきます)。

女性をメインターゲットに据えていると考えられる表紙ですが、もちろん男性にもおすすめできます。

そろそろ来年の手帳について考える季節です。バレットジャーナルに興味がある人はもちろん、毎年自分に合う手帳選びに迷う人は、本書でバレットジャーナルに触れてみてはいかがでしょうか。

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予定されていない羅針盤 [アウトライナー]

20代の頃に彼女が住んでいた街の小さな駅前商店街に、とても魅力的な喫茶店があった(いわゆる昔ながらの「喫茶店」よりもう少しモダンな感じだったけど、当時「カフェ」という言い方はしなかった)。

同じ小さな商店街の小さな書店で買った本を持ってその喫茶店に入り、窓際の席に落ち着くときの感覚は、20年以上たった今でも、個人的にとても大きな意味を持っている。

それが具体的にどんな意味なのか言語化しろと言われるととても困るけど。

同じような「とても大きな意味があるけどその意味を言語化できない」類の記憶は、他にもたくさんある。

国立の大学通りにある紀ノ国屋の中から、通りすぎていくバスを並木越しに眺めていたことととか。

ロンドンのパディントン駅で、仕事帰りのかっこいいおねーさんが、列車の席に落ち着くなりバッグの中からポテトチップスの袋を取り出してつまみはじめる様子とか。

それらは、客観的に見れば取るに足らない末端の出来事の記憶にすぎない。にもかかわらず、ぼくが今ここでこのように生きていることと確実につながっている。それらの記憶を持たない自分は、今ある自分とは少しだけど確実に違う自分だろうという確かな感触がある。

「人生設計」とは何の関係もない。「価値観」とも「ミッション」とも「目標」とも関係ない。それでも、自分がなにがしかの判断や選択をするとき、微妙に、しかし確実に影響を与えている。生きる上でのかすかな羅針盤(変な日本語)のような役割を果たしている。

重要なのは、それらの記憶に人生の羅針盤としての役割は予定も期待もされていなかったということだ。事前に「設計」したり「宣言」したりできない種類の羅針盤なのだ。そういうものを、ぼくらはけっこう頼りにしている(それなりに年齢を重ねてからそのことに気づいた)。

タスク(と呼ばれるもの)やプロジェクト(と呼ばれるもの)を考えるときには、その種の記憶をいっしょに扱いたいと思う。予定されていないかすかな羅針盤となる記憶。

特別なツールや機能は必要ない。

もちろん、ぼくならアウトライナーを使うけど、別にアウトライナーである必要はない。Evernoteでも紙のノートでもいい。ただ、かすかな羅針盤となる記憶の存在にふと気づいたとき、それを自由に書き出し、位置づけられるスペースと汎用性があればいい。

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階層(についての)リスト [Thoughts]

アウトラインの階層は上下に無限に連なっている

人生や生活をアウトラインに乗せてみるとき
意思は今いる階層とは別の階層にある(かもしれない)
目的は今いる階層とは別の階層にある(かもしれない)
意味は今いる階層とは別の階層にある(かもしれない)
動機は今いる階層とは別の階層にある(かもしれない)
理由は今いる階層とは別の階層にある(かもしれない)
喜びは今いる階層とは別の階層にある(かもしれない)
傷は今いる階層とは別の階層にある(かもしれない)
今いる階層から見えることがすべてではない

今いる階層での動きは別の階層に影響を与える(上下を問わず)

わたしたちは複数の階層に生きている
表現は複数の階層を同時に扱う

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オールドトーク [Diary]

実家は古い家だ。

文化財級の古さというわけではないけれど、昭和20年代に祖母が10代の母を連れて引っ越してきた時点で「ずいぶん古い家だな」と思ったというから、「古い家だ」と言い切って構わないだろう。

その上、もともとは誰かの仮住まい用の別宅として建てられたものらしく、家族が恒久的に生活をすることを前提に建てられたものではなかった。

つまりは安普請だった。
安普請で、古い。

風の強い日には二階がぐらぐら揺れた。
くみ取り式の便所に落としたものは二度と戻ってこなかった。
風呂場は別棟で(後日増築したから)、タオルを巻いたまま庭を横切っていく必要があった。
その様子は外からよく見えた。
雪見障子があったけれど、開けても隣の部屋が見えるだけだった。
大叔父と祖父の本が詰め込まれた納戸は、一目でそれとわかるほど傾いていた。

祖母にしたところで、ずっとその家に住むつもりではなかったらしい。ただいろんな事情で、気がついたらそうなってしまったのだ(そういうことって、ある)。

子どもの頃から、実家を尋ねてきた人が必ずと言っていいほど「風情がありますね」とか「レトロでいいですなあ」とか言うので、「じゃあ、住んでみやがれ」と言ったりはしなかったけど。



中学生になったとき、いちおう「自室」的なものを与えられた。かつては母の従兄弟が使っていたという部屋。それまでは父が書斎(的なもの)として使っていた。

部屋といっても、玄関に続く廊下の先端を区切って作られた、机と本棚を置いたら何も入らない二畳半ほどのスペースを「部屋」と呼べればの話(布団を敷くこともできないので、ぼくは祖母と同じ部屋で寝ていた)。

閉められるドアはなかったので(部屋の内外を区切るのは「のれん」だった)、思春期の男子が強く希求するところのある種のアクティビティ下におけるプライバシーは保証されなかった。

石油ストーブやファンヒーターを置く場所がないので、暖房は足下の小型ヒーターとホットカーペットだけだった。
窓枠がゆがんでいて、上の方がぴたっと閉まっているのに下の方は3センチくらい開いていた。冬の朝の室温は外気とほぼ変わらなかった。
窓辺に雪だって積もるんだ。
掃除機をかけるそばから壁土が落ちてきた。
本棚を置いていた場所の床は陥没していた(本の重みではなく本棚の重みで)。
家の前を車が通るとレコードがハリ飛びした。
ごく常識的な音量で聴く音楽も外に漏れた。
そして彼女ができてもこの部屋では何もできないという危機感。



ひとりっ子だったからこそ、息子のためにそのスペースを割いてもらえたのだった。小さな書斎を失った父の気持ちは、当時はわからなかった。



その部屋のひとつだけ優れていた点は、猫たちから高く評価されていたことだった。

自由に出入りできて、狭くて、登れるもの(本棚)があって、ホットカーペットがあるその部屋は、猫たちに大人気だった。最盛期に6匹いた猫たちは、好きなときにやってきては思い思いの時間をその部屋で過ごしていった。

ああ、それから車が通るたびにレコードがハリ飛びするので、友だちより早い時期にCDプレーヤーを買ってもらえたこと。



今では母がひとりで暮らしている実家に、その部屋はない。数十年の時を経て、元の廊下に戻されたのだ。

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秋のリスト(あるいは品性2.0) [Thoughts]

たとえば、

意味のある労力に敬意を払うこと
実際に行うことに敬意を払うこと
完成することに敬意を払うこと
言葉に敬意を払うこと
過去に敬意を払うこと
個人で立つことに敬意を払うこと
ちょろいお金を疑うこと
正すことに快楽を見出さないこと
もの申すことに快楽を見出さないこと
一員であることに快楽を見出さないこと
見せることだけを目的として行動しないこと
システムの向こう側を想像すること
内側を向いて笑わないこと
外側の風景を想像すること
批判や異議表明に汚い言葉を使わないこと
心の操作をビジネスと呼ばないこと

など

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かりそめのアウトラインのカタチ [アウトライナー]

アウトライナーで扱われるアウトラインは、「構造」を示しているとは限らない。同様に、階層の高低は「抽象度」の違いを示しているとは限らない。

テキストの流れを、構造とも抽象度ともまったく無関係に、アウトラインのカタチの中にからめとってしまえるのがアウトライナーだ。

組み替え、移動し、検討し、理解するためのかりそめの、あるいは便宜的なアウトラインのカタチ。

そのことに気づくと、アウトライナーを今までよりもずっと自由に使えるようになる。

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ジェネラルライフ [Thoughts]

人生について、あまりにも限定的な範囲での客観的な結果にこだわる態度は、役に立つ場合もあるけれど、人生に与えられた重要な希望を自ら捨てることにもつながりかねない。

政治家が重要な政治判断について「総合的に検討し、適切に判断する」としか言わなかったら、そこには言葉に対する不誠実さしか感じないけれど、それは政治家が限定的な範囲での客観的な結果に対する責任を負っているからだ。

でも、自分の人生は「総合的に」判断していい。
これが希望でなくてなんだろう。

たとえば、今日予定したタスクが終わらなかった。
達成すべきことが達成できなかった。

限定的な範囲での客観的な結果にこだわれば、その日は不満足な、不成功な一日だろう。

でも、今日を振り返って範囲や基準を限定せず「総合的に」判断すれば、実は満足できる一日だったということは充分あり得る。

もし仮に今日がどれほど「総合的に」考えたところで不満足だったとしても(そういう日だってある)、「今週」や「今月」や「今年」のスパンの中で「総合的に」振り返ってみれば、実は満足できる人生を構成する一日だったということは、やはり充分にあり得る。

人生はそもそも「総合的」なものだ。
くり返すけど、これが希望でなくてなんだろう。

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本を読まない子どもであることを再確認させてくれた記念の文鎮 [Diary]

子どもの頃から、本は好きだけど本を読まない子どもだった。

家には本がたくさんあったし、本に関しては好きなだけと言っても過言ではないくらい買ってもらえた。

でも、本を読まない子どもだった。

少なくとも、自分ではそのように認識していた。



「読書感想文」が苦手だった。だって、本を読まない子どもだったから。

本を読まない子どもだったけど、好きな本はあった。でも、どこがなぜ好きなのか、自分でもわからない。ただ何十回でも読み返しているので、きっと好きなのだろうと推察されるだけ。

その本の文章が身体を通過するときの「ある種のある感じ」を味わいたいから、と今なら説明するだろうけど、やっぱり意味わかんないね。

でも、読書感想文では、感想を述べ、理由を述べなければならない。

読んで感じたこと。読む前後で変わったこと。登場人物について思うこと。いろんなヒントが与えられたけど、何十回も読んだことがあるはずの本であっても、書くべきことはなにひとつ浮かんでこない。



まして、読んだこともない「課題図書」の感想文なんて。

だから、本当ではないことを書いた。

本当でなくてもいいと思うと、俄然楽しくなってきてしまう悪い癖が発動されて、けっこうノリノリで書いた。



その結果として、区だか市だかの小学生読書感想文コンクール(的なもの)にぼくは学校を代表して出場することになった。

各校の代表が自分の感想文を読み上げ、課題図書についての座談会のようなものが行われた。

みんな真面目で優秀で、ちゃんと自分の意見を持っていた。みんな本を読む子どもだ。ぼくとは違う。

その上、ぼく自身がちゃんと自分の意見を原稿用紙に書いてしまっており、それはコピーされてみんなに(ギャラリーの保護者たちまで含めて)配られていた。

今さら逃げることもできない。

ぼくはまた、本当ではないことを話した。そればかりか、どこかの学校の女の子と意見が対立してムキになって熱い議論までたたかわせてしまった。

女の子は少し涙ぐんでいた。

ぼくは大人げない。
大人じゃないけど。



(君のことがちょっとだけ気になってたんだ)



ぼくは嘘つきだ。



コンクールの記念品(だと思う)の文鎮は、机の上にしばらく置いてあった。本を読まない子どもであることを再確認させてくれた記念の文鎮。

考えてみれば、「文鎮」という字面はその目的によくマッチしている。

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