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先頭の風景、柔らかいくさび、物悲しい新たな序列 [Thoughts]

少し前に読んで、印象に残っていた記事。
「順列が人生に与える影響について」(るうマニアSIDE-B)

日本の学校では、何かを順番に行う必要があるとき、たいていは名字のあいうえお順になる。持って生まれた名前によって順番が固定されてしまう。

特に何でも最初になってしまう「あ行」の人たちは「あ行の苦行」を味わうことになる。当然何をするのも最後になってしまう「わ行の苦行」だって存在するだろう。つまり、たかが名前によって見えている風景がずいぶん異なってくる、という話。

この記事を読んだとき、最初はあまりピンと来なかった。学校で名前順で順列を決める場面がどんなふうだったか、不思議なほど覚えていない。

よく考えてみたら名字が「た行」のぼくは、前からも後ろからも常に真ん中あたりになっていたわけで、だからこそ順番を意識することもなかった(=印象に残っていない)わけだ。



逆に印象に残っている風景は、校庭や体育館で整列するときのもの。体育の授業とか運動会とか朝礼とか。そういう場面での並び順は「身長順」だった(今はどうなのか知らない)。そこでぼくが覚えているのは、常に「先頭」の風景だ。

もちろん「小さかったから」。中学に入学した時点の身長は132cmだった。

「前へならえ」のときは腰に手を当てる、好きな子が貧血で倒れたことに気がつかない、先生に常ににらまれ続ける、先頭。

名前順での「真ん中あたりの風景」は印象になく、身長順による「先頭の風景」だけが頭に残っている。そう考えると確かに、自分の意思とは無関係に規定される順列は、人生に些細だけど確実に影響を与えている気がする。

柔らかいくさびくらいには。

ちなみに、中学2年になる頃から急激に背が伸びて、卒業時には160cmを超えていた。決して大きくはないけど、もう先頭ではなくなった。それ以降「先頭の風景」は記憶に残っていない。現在の身長は168cmです。



今日は天気がよかったので、通りがかった河川敷のグラウンドでリトルリーグの試合を眺めていた(リトルリーグであっても草野球であっても、それぞれのレベルにおいて野球というものはどうしてこんなに楽しいのかしら)。

小学校高学年くらいのチーム。一方のチームの中に特別に小さい子がいた。「年齢が小さい子」ではなく「体格が小さい子」。彼がバットを振り、走る姿に引きつけられる。

おそらく運動能力は高いのだろう。バッティングフォームはなかなかのものだったし、相手に向かっていく気持ちだって持っているのだけど(少なくともその前の打席で一度もバットを振らず見逃し三球三振だった子に比べれば)、いかんせん体格に対してバットが重すぎるようで、明らかな振り遅れの空振り三つ。

そう、このくらいの年齢だと同じ学年でも、ひとりひとりかなり体格が違う。けっこう、いかんせん、圧倒的に(よく知ってる)。

男の子の社会(とあえて呼ぶ)はこの頃から既に「強さ」に基づく厳然とした序列社会だ。公式にはどうあれ。体格の小さい側の視点からいえば、それはなかなかに悔しいものだ。

誰がいちばん強いか。誰がいちばん速いか。口には出さなくてもみんな知っている。そんな力学の中で闘うことになる。力を持つものはそれを行使し、持たないものはそれなりに。

努力し、
工夫し、
取り入り、
立ち回り、
隠れ、
工夫し、
努力し、
成績に光明を、
キャラに光明を、
または苦い諦め。



でも、そんな力(=体格・体力・運動能力)の序列は、少し時間が経ってみれば絶対的なものではなかったことが明らかになる。そしてかつての子どもたちは、昔とは違う、もう少し複雑な序列の存在を知ることになる。

新しい序列は、かつての序列とは必ずしも一致しない。ときに物悲しいくらいに。

ある者は新しい序列で上位に座り、かつて上位にいて今は下位にいる者を見返したと思うかもしれない。ある者は、序列などというものとは無関係に生きていけることに気づくかもしれない。



人生はオープンエンド。
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