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少しずつ読む本、著者と読者の経験が不思議に絡み合う場所 [Diary]


わかるなあと思う(そしてそう思えるのがうれしい)。私見では、村上春樹『遠い太鼓』ほどちょっとずつ読み進めるのに適した本はない。



『遠い太鼓』を最初に読んだときのことはよく覚えている。大学生の頃、発売直後に平積みになっていたのを伊勢佐木町の有隣堂本店で買った。そして馬車道交差点の角にあった「珈琲屋」でハンバーガーをかじりながら出だしのところを読んだ(今はなき「珈琲屋」は日本で最初にハンバーガーを出した_と言われている_店だ)。

それから二週間くらいかけていろんなところで少しずつ読んだ。

ぼくはふだん「時間をかけて読む」ことはまずなくて、特に学生の頃は最小限の中断(バイト、授業、食事、睡眠、ある種のワルイコト)を除けば終わるまでひたすら読み続けるタイプだった。そこまでの駆動力を感じない本は途中で読むのを止めた。

でも不思議なことに『遠い太鼓』だけは、とても時間をかけて、いろんなところで少しずつ読んだ記憶がある。

「珈琲屋」のカウンターに始まって、公園のベンチ、電車の中、大学の教室、バイト先休憩時間、電車の中、喫茶店、自分の部屋、彼女の部屋。

時間を惜しんでよんだというわけではなく、思い出したように本を開いてひとかたまりずつ。急いで読み進めようという気持ちでもなくて、でも毎回しおりを挟んだページを開くのが楽しみだった。

そしてまた不思議なことに、『遠い太鼓』は読み終わった後もずっと「思い出したように開いては、ひとかたまりずつ読む本」であり続けた。分厚くて持ち歩くのに不便だったので、文庫が出るとすぐに買い換えた。

就職しても大学院に入っても再就職しても結婚してもフリーになっても再々就職しても、いちばん長い間鞄に入っていた本だと思う。

2013年に完全に分解してしまったので買い換えた。でも分解した方も捨てられず、今でも本棚に入っている。



『遠い太鼓』は読んでいるととても楽しい本だけど、著者本人としては決して無条件で楽しい気持ちで書いたわけではないようだ。

なにしろ「疲弊」がテーマの文章で始まり、途中スランプのように書けなくなった空白期間もある。

去年出た『ラオスにいったい何があるというんですか?』では、『遠い太鼓』が長編小説の印税のアドバンス(前渡し金)を受け取る条件として約束し、書かれたものだということが明かされている。

そういうことを知っても、ときどき適当に開いて何ページか読むときの楽しさが色あせることはない。

いや「楽しさ」というのとはちょっと違う。例えていうならそれは、旅行が道中うんざりすることばかりだったはずなのに、後から思い出すとそのうんざりする感覚も含めてまた味わいたくなる、あの感じに似ている。

著者自身の経験と、それを読んでいた当時の自分自身の経験が不思議に絡み合う場所への郷愁みたいなもの。

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