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(痛み)とその提出 [Thoughts]

不思議なことに、人は自分の知っている何かを他人に知ってもらいたいと思うし、知ることを要求しさえする。その何かに痛みが伴う場合は特にそうだ。
→「わたしの(痛み)が、あなたにならわかるはず」

一方でこれも不思議なことに、人は自分の知っている何かを他人は知らないし、また知り得ないと思いがちだ。その何かに痛みが伴う場合は特にそうだ。
→「わたしの(痛み)が、あなたにわかるはずがない」

両者はたぶん、同じ意味なのだろう。



ある種の(痛み)については、他人に理解を求めようとしない方がいい。それが自分にとってどれほど切実な問題だとしても、あるいは切実な問題だからこそ、他人はそれを同じように切実な問題とは受け取らないだろう。

同時に、ある種の(痛み)については、他人よりもよく知っていると思わない方がいい。それは個人の内部で完結するものだ。それは他人とは関係なく、自分が「ただ知っている」ことなのだ。



それでも、ある種の(痛み)を形にすることにはやっぱり意味があると思う。矛盾するようだけど。

(痛み)を、他人が手を触れられる、感じられる、形あるもの——広い意味で——に変換して提出することは、芸術的行為のひとつの形でさえあるはずだし、何よりも人との関わりの中でそれをすることは、生活(=生きる活動)の重要な要素のひとつでもある。

それはたぶん、表現の問題だ。



(痛み)は、たぶん別の何かとも置き換え可能だ。

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