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かな入力の悲劇 [Diary]

また「よろしくおねがいもうしあげまする」とメールに書いて送ってしまうという悲劇。

意味がわからない人のために:
わたしJISかな入力なんですよ。で、かな入力だと読点、つまり「。」って、「シフト+る」って打つんですよ(お手持ちのキーボード見てね)。
kanaeky.jpeg

で、何かの拍子にシフトキーを空振りすると、上のような文章ができる。だいたい年に2〜3回くらい発生します。

ま、この間違いのいいところは、誰に送っても(社内のエライ人に対してもクライアントに対してもやったけど)、だいたい必ず大受けしてくれるところだ(喜劇だ)。



とかいう話をすると必ず「かな入力は効率悪いからローマ字入力練習したほうがいいよ」と忠告してくれる人がいるけど、無理です。これまで何回となくローマ字入力に挑戦したけど、無理です。

もう脳の中にかな入力の回路が形成されてしまっていて、ローマ字で入力していても一瞬気を抜いただけで手がかな入力してしまって、気がつくと2行くらい意味不明の言語が並んでいる。で、何度目かの挑戦で諦めたんです。

** 嫌味開始 **
それでもしつこく勧める人に限って、ローマ字入力がそんなに速いわけじゃないというのも不思議。効率が悪いというのは確かだけど、それでも「そんなに速くないローマ字入力」と比べれば倍以上は速いと思うぜ。
** 嫌味終了 **

とはいえ、かな入力をマスターしてしまったのは自分の人生の三大失敗のひとつだと思っている。

どうしてそんなことになってしまったかというと、大学二年生のとき初めてワープロ(専用機)を買ったときに、当時近所の書店で売られていたカナタイプの教則本(!)で練習しちゃったから。

当時、日本語はローマ字で入力するべきだと教えてくれる人がだれもいなかったかわりに、正しいタイピングのためにはちゃんとした教則本で練習するべきだと教えてくれる人がいたから。それで2週間特訓して、完全なブランドタッチになっちゃった。

その後何かの本に「JISかな入力ではブラインドタッチは不可能だ」と書いてあるのを見つけて、自分は不可能を可能にしたのかと思ってぶっ飛んだけど。世の中には意外にたくさんのかな入力派の人がいると知ったのはもっとずっと後のこと。



ちなみに三大失敗のうち他の2つは、いずれも恋愛がらみです。

きっとあなたはリーダーになれる [Diary]

以前所属していた部署で、ぼくの担当していた仕事を引き継ぐことになった、とても優秀で性格も良い入社4年目の後輩Uは、とっても仕事ができるし、納得いかなければ上に対してがんがん意見を言うし、だけど豪快に見えて実はすごく気を使う。

で、そういう子の常として上からも下からも頼られるようになり、本人もそれに答え、そのうち誰もが彼女がまだ入社4年目の25才で、時には助けが必要だということを忘れる。

気がつくと、彼女が困ったときに頼る相手がいつの間にかいなくなってたりして。

よくあることだし、それはひとえに彼女が優秀だからだけど、それでもそこに気づくのが「上」の人の役目じゃないの? それがみんなの大好きな「リーダーシップ」なんじゃないの? と思う。

単に仕事のできる人間が、仕事を割り振ったり管理したり先頭に立って人を引っ張ったりすればすむほど、人の上に立つって簡単なことじゃない。そんなことは(自慢じゃないけど)リーダーシップのかけらもないおれにだってわかるぜ。

とか思ってみたところで、自分ももう部署が変わってしまったので何もしてあげることができないし、そもそも引き継ぎが悪くて彼女に苦労をかけてるのが自分だったりして切ないのだけど。

会社という場所にいて、自分がいちばん力不足を感じるのって実はこういうところだ。

でもきっと彼女はそれを乗り越えちゃうし、結果として問題が存在したことさえ肝心な人には気づかれないまま終わる。

え、結果的に本人が乗り越えちゃうなら、それで問題ないじゃないかって? 「上」の人だってそのくらい折り込み済みなんじゃないかって?

そう思った人はおめでとう。きっとあなたはリーダーになれる。

矛盾と葛藤を抱えたまま [Diary]

年下の友人が亡くなった。まだ40才になるかならないか。公私合わせて、年下の人が亡くなったという知らせはこの1年間で3人目。多すぎるな。



その友人は、ぼくが最初に就職した会社を辞めた後、学生でもない身で出身大学のある教授の研究会に参加させてもらっていたときの仲間で、友人と言っても最後に会ってから15年以上経ってるし、当時だって特に個人的に深い付き合いがあったわけじゃない。

けど、その場所に集まった人間は、社会の中にうまく収まりたくても収まれない自分を持てあましてる感じの人間ばっかりで、その意味で自分も含めてみんな同類だった。

そんな連中が社会の中になんとか居場所を見つけて、結婚したり子どもが生まれたりして、なんとかまともに生きてるということに対する無言の連帯感みたいなものはいつもどこかに感じていた。

だからこそ、彼が亡くなったという知らせを聞けば、彼が最後までその葛藤とか矛盾を抱えたままだっただろうということも、自分のことのように理解できる。

自分のその年齢のときを思い出して(数年前のことだからまだ生々しく覚えている)、そこで人生が終わってしまうことを想像してみる。

その葛藤や矛盾を抱えたままこの場所から去ることに、自分は納得できるだろうか? 自分はその事実を受け入れられるだろうか? とかとか。

もちろん納得できなくても受け入れられなくても、それはやってくるときはやってくる。

それからまた、いつもみたいに「時間を無駄にできない」ことを思う。

どれだけ時間を有効に使っても、どれだけ努力しても、その葛藤や矛盾はきっと一生解決しないと今ではわかっているし、その実感が彼の亡くなった年齢の頃の自分と今の自分との間の最大の違いだとしても。

いや、それがわかったからこそ、時間を無駄にできないということが本当の意味で理解できたのかもしれない。

そんなことを考えながら、20代や30代の後輩たちといっしょに仕事をする1週間。

週末のランダムノート [Diary]

震災の影響で一か月延期になった、今年初の六角橋商店街の「闇市」。
それでもザディコキックスは変わらない。

Fumicaさんの独特の動きが好き。
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和風ハンバーグ。
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角度が気になる日本大通駅。
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雨上がりの日本大通。
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ある日、言葉が通じなくなる [Thoughts]

震災の後、ついこの間まで「言葉が通じている」感覚があった人の言動が突然理解できなくなるということが、何回か立て続けに起こった。世の中の事象に対して発する言葉や行動が突然180度変わってしまったみたいな。

切ないことには、おそらく相手からはこちらの言葉が突然理解できなくなったように映ってるんだけど。

そういうことは普段から起こるものだけど、こんな非常事態には、人の価値観とか傾向がむき出しになるから、なおさら起きやすくなる。正しいとか正しくないとかじゃなく、それは当然のことだし、仕方のないことだ。

仕方のないことではあるけど、知らないうちに物ごとが思っていたのとは変わっているという事実に不意打ちを食らうということが、ショックだったり寂しさだったりを伴うことは間違いない。

それ以上に身にこたえるのは、言葉が通じる通じないという感覚は、単に相対的な位置関係の変化にすぎないという、理論的にはずっとわかっていたことを、実際に思い知らされる瞬間だからでもある。

だとしても、生きていくには言葉が通じている感覚が必要だ。そして何より忘れちゃいけないのは、人生の中のある時期のある期間、ある人と言葉が通じた「感覚があった」ことは、幻想ではなくて絶対に本物なんだということだ。

2011年のコンテクストからみたアウトライナー [アウトライナー]

Scripting Newsで、デイヴ・ワイナーが久しぶりにアウトライナーについて語っている(もう、それだけで嬉しくなっちゃう)。

「なぜアウトラインが役に立つか」というタイトルから読者が期待する内容からは、たぶんかけ離れている。むしろワイナー自身が文中で触れているように「2011年のコンテクストからみたアウトライナー」というタイトルの方が適切だと思うけれど。

「2011年のコンテクストからみたアウトライナー」は、一本のアウトラインの中で複数のサイトの構成とコンテンツを同時に管理するツールとして登場する。それが、ワイナー自身が自作のアウトライナー(OPML Editor=Frontier)で今やろうとしていることだ。
他人が書いている内容にキャッチアップするのは大変な作業だが、自分自身が創り出したものを管理することはさらに困難だ。

だから、それらを整理し、わかりやすく、簡単に見つけられるようにしたい。それからブログに投稿した記事に何か間違いを発見したら、あるいは注釈や写真を追加したいと思ったら、できるかぎり簡単に元のテキスト発見し、修正し、保存したい。

私にとってアウトラインが、急激にそのための方法になりつつある。

(中略)

つまり、素早く検索し、移動し、簡単に再構成できる単一のドキュメントの中でサイトの集合を管理することだ。

Scripting Newsを初めとして、文字通り何十ものサイトを管理しているワイナーのような人間にとっては、これができれば負担がずっと軽くなるだけでなく、軽減した負担の分のエネルギーを創ることに向けられるという意味で二重の意味がある。

もともと「構造と内容を同時に編集する」ことができるのがアウトライナーの最大の特徴で、そのこと自体は自体は新しいことではない。ただし、その対象はかつては論文やレポートなどの構造的な文書だった。そこに、より今日的な意義を与えるとすれば、複数のサイト=自分のネットプレゼンス全体の管理、ということになるのはたぶん必然。



開発者でもあるワイナーとは比較にならないけど、自分自身の今のアウトライナーの使い方(そして感じている意義)と比べてみるとすごく興味深い。

「他人が書いている内容にキャッチアップするのは大変な作業だが、自分自身が創り出したものを管理することはさらに困難だ」とワイナーが書いているのはまさにその通りで、自分の思いつきや考えたことほど、とっちらかってわけがわからなくなってしまうものはない。結果としてそれらは思いついたり考えたりしたという記憶だけを残して消えていってしまう。そして日々の現実だけが残る。

で、ぼくにはそれが耐えられない。

今やりかかっていたり、考えたりしていることの全体が、一本のアウトラインの中に入っていることの意味は、想像以上に大きい。

本来なら、頭に浮かんだきり消えていくしかなかった思いつきが全体の中に位置づけられて、他のものごととの関連の中で見られるから。

それは、例えばEvernoteの中にため込んだ内容を検索して引っ張り出すこととは全く違う。そこには全体の中の位置づけという視点が抜けている。

位置づけられているからこそ、断片的な思いつきに生命が吹き込まれて、成長して形になっていくことがある。あるいは、どこにも位置づけられず「役に立たない」ということが判明する。いずれにしても、記憶だけを残して消えてしまうことはない。

Evernoteは素晴らしいと思いつつ、そして便利に使ってはいつつ、入れ込むことまではできないのはそこに理由がある(Evernoteが最近になってノート同士のリンク機能を追加したのは、そのあたりをカバーする意図だと思う)。



ワイナーの文章の全文訳はRenji Talkの方にのせたので、興味のある方はどうぞ。
「なぜアウトラインは役に立つか」

自己完結して柔軟で悲しさとか寂しさと切り離せない [Thoughts]

強くなりたいと切実に思うのだけど、その「強さ」の感じを言葉にすることはものすごく難しい。

それは自己完結していて柔軟で、ある意味では悲しさとか寂しさと切り離せない。

40年以上生きてきたけど、自分がそのような強さを身に付けることができるのか、今でもわからない。

でもひとつ言えるのは、もっと若い頃にはそれが強さだということすら自分には理解できなかったということ。

そして今になってわかるのは、当時の自分にはそれが強さなんだと理解することもできなかったような強さを、もっとずっと若い頃から身に付けていた人が、自分の周囲にもちゃんといたということ。

その人(たち)が、いったいどんな経験を通じてその強さを身につけていたのか。今となってはわからないけど、この年齢になってようやく、そのことの意味が想像くらいはできるようになった。

それは良いことなんだろうかと思うんだけど、たぶん良いことだ。

本当に助けてくれたソフトたち [Diary]

最近はじめてマックを買ったという同僚からおすすめソフトを聞かれたけど、聞く相手を間違ってると思う(笑)。

ぼくに聞いてもOPALやOmni Outlinerをすすめられるだけだ。Keynoteはうちの職場では使うあてがないし、パワポやエクセルで会社の仕事の延長戦ならWindowsがいいに決まっている(あ、Parallelsとかすすめればいいのか!?)。

それはそれとして、個人的な良いソフトの定義というのは簡単で、「自分のやりたいことを本当に助けてくれる/助けてくれた」感覚があるかどうかというその一点だけ。

具体的には、それを使うことで自分が何かをすることを助けてくれたという感覚があるかどうか。あるいはそれまでできなかったことができるようになったという感覚があるかどうか。あるいは自分の能力が増幅されたという感覚があるかどうか。

何かをしようとする目の前に立ちふさがるようなソフトばっかり日々使っているから、余計そう思うのかもしれないけど。

で、はじめてパソコンを買った1993年から20年近くの間にずいぶんたくさんのソフトを使ってきて、だいたいの金額を計算してみたら軽く100万円を越えているわけだけど(詳細は怖くて計算できなかった)、その中で「本当に助けてくれた」ものがどれだけあったかしらと考えてみたら、驚くほど少なかった。

その貴重なソフトたちをいくつかあげると、

Acta7(Mac)
WZ EDITOR(Windows)
Jedit(Mac)
OPAL(Mac)
BiND for Weblife(Mac)
Things(Mac)

別にこれをおすすめするとかいうことではなく、あくまでも自分を本当に助けてくれたという実感があるソフト。自分の用途からいって文章を書くソフトに偏ってるし、仕事で使うものは入れてないし、iPhoneやPalmのアプリも外してある。だからたぶん人の参考にもならないと思うけど。

でもこうして改めて眺めていると確かに何か感じるものはある。

みんな一本筋の通った哲学を持ったソフトであること。というか、哲学に基づいて機能を絞り込んでるソフトと言った方がいいかもしれない。そして(結果的には)圧倒的にMacのソフトが多いこと。

逆に頻繁に使ってはいたけど、自分のやりたいことを本当に助けてくれたと心から感じるかというと、うーん、というようなものの中にいわゆる「多機能」なものが多いような気がする。

NISUSとかInspirationとかGoliveとかWordPerfectとかClarisImpactとか……。あ、これだけで20万超えだぜ。

もちろんそれは良し悪しの話じゃなく、相性ということもあるし単に使いこなせなかったということもある。

うん、でも確かにそこには何か大きな違いがある、ような気がする。

無意識に自分を裏切る自己不信に勝った話 [レオ・バボータ関連]

原文:Leo Babauta "the insidious perfidiousness of doubts, overcome" from Zen Habits
この記事は、Leo Babautaさんがブログ「Zen Habits」でUncopyrighted(コピーライトなし)として公開されている記事の日本語訳です。原文同様、この日本語訳もUncopyrighted(コピーライトなし)とします。

自己不信という人間のありようを克服した人間はひとりとしていない。どんな自信家であっても、満ち足りた禅の導師であっても、人気作家であっても同じだ。自己不信というのは、あるものなのだ。

問題は自己不信によって、何か素晴らしいことを達成することや、望む生き方を妨げられるかどうかということだ。

私もさまざまな人——良い人もいたしそうではない人もいたが——の下で働き続ける数多くの人々の一人だった。自分で自分の生き方を決める自信が持てなかったからだ。才能のある人たちがこれだけたくさんいる中で、ライターとして成功する能力が自分にあるのかどうか、疑っていたのだ。

その不信は圧倒的というほどでもなかったが、それが問題なのだ。それは眼前で存在を主張したりしない。気づかないうちに意識の下に忍び込み、あなたの足を引っ張り、消耗させ、ついには足を止めさせてしまう。暗闇に潜み、本来は腐った切れ端に過ぎないにもかかわらず、あたかも私たちの存在の一部分であるかのように深く浸透していく。

私たちが滅多にそのことを考えないとしても不信はそこに存在している。それは頭の中で「私にはできない。私には力が足りない。絶対に達成できない。失敗して恥をかくだけだ。なぜあえてそんなことを望む?」とささやく、あの声だ。

それはそこにある。そして、私たちが思うよりもずっと強い力を持っている。

彼らが邪魔することを私は許してきた。誇りを持てない仕事を長い間続けてきた。職をなくさないため、そして安定した収入のためだ。自分自身のために働くためにはお金が必要だと思っていた——ビジネスを始めるには資本が必要だ。そうだろう? あるいは「本物の」ライターに——本物のライターの世界で成功した人に——なるのは実現不可能な夢だと思っていた。

どのように自己不信を打ち負かしたか

私は間違っていた。私は持てる勇気を振り絞ることではなく、最前線を正面突破することでもなく、情報を得ることによって自己不信を打ち負かした。

情報は少しずつ、しかしほとんど毎日のように入ってきた。私は初心者向けの無料ブログサービスを使ってこぢんまりとしたブログを始めた。そこに誰も読まないであろう小さな記事を書いた。何人かの人が読んで、良かったと言ってくれた。それこそが情報だった。

私は記事を書き続け、一握りの読者からではあったが、ポジティブなフィードバックを受け取り続けた。そうした初期のサポーターの一人にKamalがいる。素晴らしい男だ。昨日、ここサンフランシスコで、私はついに彼と直接対面することになった。彼は私が良くやっていると言ってくれた。そして、私の書く文章が心からのものであり、いつか成功すると言ってくれた。彼は私を信じてくれた。それもまた情報だった。

妻のEvaは、誉めることと信頼することを通じて私をサポートしてくれた。母は私を誇りに思ってくれた。それも情報だった。新しい読者がコメントをつけてくれるたびに、情報の量は増えていった。それは間違いなく価値のある情報だった。

こうした小さな情報のひとつひとつを通じて、私は自分自身のデータベースを構築することができた。過去の疑念は間違いだと教えてくれる、心の中の3Dモデルだ。それは私が築いた貧弱なうわべだけの建物にすぎなかった。あまりに強固で破壊することなど不可能に思えたもの、あまりにもリアルで疑問の余地すらない、日々の現実の根幹のように思えたものの中にそれは建っていた。

しかし間違っているのは彼らの方だと、新しい情報は教えてくれていた。それは衝撃的なことだった。これだけ長い間信じていたことが間違っていたなどということがあるだろうか? しかし情報は首尾一貫しており、止まることはなかった。今日までそれは続いている。

新しい情報のおかげで、今では私にとってのリアリティは異なったものになっている。自己不信は今でもあるものの、それが私の現実を定義することはない。それは実際のデータによって検証され、否定されることを待つ仮説にすぎない。過去の仮説が繰り返し否定されてきたように。

あなたはひとりではない

自己不信は誰にでもある。妹のKatは健康とフィットネスに熱中するあまりそれで生計を立てたいと夢見るようになった。彼女は学校に通い、いずれは他の人に教えられるようになりたいと考えていた。私は言った。「ただ始めればいい。クライアントを見つけ、その人に教えてその経験を積み、次のクライアントにもっとうまく教えるんだ。広告は口コミに任せて、今すぐ夢を実現するんだ」

自己不信が少しだけ彼女を押しとどめた。それは理解できる——自己不信は私のことも何年も押さえつけていたのだ。それでも彼女は踏み出した。認可を受けて数人のクライアントに教え、それから初心者のための教室をいくつか開いた。今では彼女は夢を実現している。私は彼女のことをとてつもなく誇りに思っている。

自己不信は誰にでもある。私のもうひとりの妹Anaは、少し前に仕事を失った。自分でマーケティング会社を興すよう私は言った。自分のことは自分がいちばんわかっている、私は独立はできないと彼女は言った。それは間違っている、好きなことならできると私は言った。料理が好きなら小さな食堂を初めて人々のために料理をすることもできると言った。バレエを教えることが好きなら学校の後で子どもたちに教えることもできる。ただ始めるんだ。

彼女はそれでも自分を信じ切れなかったが、最近になってマーケティング・コンサルティングの世界に飛び込み、一歩を踏み出そうとしている。私は彼女のこともとても誇りに思っているし、彼女が飛び立てると信じている。

自己不信は誰にでもある。あなたにもある。人によっては自己不信を打ち破り、好きなことをできるところまで到達しているだろう。他の人はそこまで至っていないだろう。自己不信が自分を押さえつけていることに気づいてさえいないかもしれない。私はそれを乗り越えてきたし、妹たちも乗り越えてきたし、他の無数の人々も乗り越えてきた。私たちがあなたと違うことは何もない——ただより良い情報に行き当たっただけなのだ。

情報を手に入れよう。何かをして、フィードバックを受けよう。やり続けよう。より良くできるようになろう。フィードバックを受けながら、情報に耳を傾けよう。自己不信を検証して否定しよう。結果が出たら、そして本当の現実を知ったら、少なくとも自己不信を検証したことを誇りに思おう。私はすでにあなたのことを誇りに思っている。あなたはここまでこの記事を読んできて、暗闇の中に揺れる自己不信に小さな光を当てようとしているのだ。

私の敵は私だ
私を打ちのめすのは私だ
怪物を作り出すのは私だ
私の自信を引き裂くのは私だ
(ポーラ・コール)


レオ・バボータの電子書籍「Focus」の翻訳をRenji Talkで公開しています。
「フォーカス——雑音化時代を生きるためのシンプル化宣言」

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