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散歩の効用 [Diary]

ここのところ、休みでも遠出をすることがほとんどなくて、変わりに家の近所の住宅街を、延々2人で散歩することが多い。

行き先は特に決めず、曲がり角が来たら好きな方に曲がって、自動販売機で買ったお茶を飲みながら。延々と歩くみたいな。

うちの近所は起伏が多く、その山谷の間を狭くて入り組んだ道が網の目みたいに通っていて、ちょっと歩いただけで方向が全くわからなくなるし、1時間か2時間歩くとかなり疲れるけど、いくら歩いても飽きない。

そうやって歩き回ってると、15年以上住んでいながら、いかにこの街のことを何も知らなかったかということがよくわかる。あるいは知ろうとしなかったことが。

地元の駅を発車してすぐのところに畑のある一角があって、毎朝電車から眺めては歩いてみたいと思ってたんだけど、今日はじめて念願がかなった。

歩いてみると、すぐ近所なのに草の匂いがして鳥の鳴き声がしてなんだか異世界みたいに都会離れした場所(そしてもちろんネコポイントも獲得)。

いつまでこの場所に住んでるかわからないけど、住んでる間にここに来て良かった。ちっちゃなことだけど、たぶんこの種のちっちゃなことの積み重ねって、人生の中で決して小さな存在ではないから。

そんなわけでこれからもしばらく開拓を続けるつもり。

それから、これも最近気づいたのは、会話のためにいちばん適しているのも長い散歩だということ。家にいるよりも、カフェで向かい合うよりも、並んで歩いているときがいちばん話ができる。

ま、5キロくらい住宅街を歩いたところで「そもそもこの時点でモテないよね」と言われたけどさ。
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自分のエネルギーを使って他人の人生を生きる [Diary]

夢で、Mちゃんと飲み屋のカウンターに並んで日本酒を飲みながら話をした。Mちゃんが夢に出てきたのははじめてだった。

Mちゃんがこの世界にいないことはもちろんわかっていて、でも並んでお酒を飲んでいることに対してまったく違和感を感じなかった。

それは昔、実際にMちゃんと飲んだことのある五反田の飲み屋で、店内の様子もカウンターの奥にいる大将もそのときのままだけど、時代は現在で、自分は42才なんだけどMちゃんは最後に会った27才のまま。

年齢の差は夢の中でもちゃんと認識していて、
「ずいぶん離れちゃったねえ」
「でも40代になってもあきれるほど変わらないね」
「貫禄がなさすぎて仕事で損ばっかりするけど」
なんていう会話を交わしつつ、ほっけをつつきながら日本酒をちびちびした。

そして十数年ぶりに夢に出てきてくれた死者に対して何を話したかというと、主に現在の仕事の愚痴だった(笑)。ただそれは今現在、目の前にあるリアルな問題でありながら、自分の根本に通じるものでもあって、あんまり言葉にしたことがないようなことだった。

今の職場で左隣に座る、鉄人のように頑丈でパワフルで明るい入社2年目の女の子が、毎日のように深夜2時3時まで鉄人ぶりを発揮して働きながら、そして全然平気そうに振る舞いながら、本当はとても苦しんでいて、もう限界が近いこととか。

職場で右隣に座る、どんな嫌なことも大変なことも柳のようなしなやかさでやり過ごす、尊敬する上司が、実質的に誰も助けることができずやっぱり苦しんでいることとか。

そんなそばにいる人の感情の波がすごくリアルに伝わってきて、ときどきいたたまれなくなることとか。

自分には昔から、他人の感情をまるで自分の感情みたいに感じてしまう癖があることとか。

そしてそれを感じながら自分には何もできないこととか。

Mちゃんは素足に履いたスニーカーを(それは以前にこの店で飲んだときのMちゃんの服装)、カウンターの下でぶらぶらさせながらしばらく考えた後、言った。

そんなふうに、他人の感情に対して自分を開きっぱなしで生きるっていうのはさ、自分のエネルギーを使って他人の人生を生きてることなんだよ。
それってちょっと考えるよりずっと消耗するよ。普通の人にならとっくに閉じてると思うよ。そうやって開きっぱなしで生き続けるには、すごいパワーが必要だなんよ。
(お酒を一口)
だけどもし必要なだけのパワーがあれば、逆のことができる。
その人はただそこに存在しているだけで、周囲の人を変えられる。
ポジティブな影響を与えられる。
そして、そうやって閉じないまま生きてるというのは、もしかしたら何か意味があるのかもしれないよ。


それからMちゃんはトイレに立ち、ぼくは彼女の言葉の意味を考えながら、戻ってくるのを待っていた。

気がつくといつの間にか誰もいなくなった飲み屋の真っ暗なカウンターにひとりで取り残されていて、閉店したというよりもずっと前から営業もしてないような感じで、Mちゃんもどこにもいなくて、どうしたものか途方に暮れた。

そして突然、Mちゃんはこっちの世界にいる間、いつも「自分のエネルギーを使って人の人生も引き受けて」生きていたんだということに思い至り、なんだか叫びだしたいような気持ちになった。

目が覚めたら泣いていて、夢を見て泣いたというのはたぶん生まれて初めての経験だった。
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自己評価論 [Thoughts]

大学生が就活の話をしているのを聞いていて、就活って結局自己評価と自己プレゼンテーションの訓練みたいなものだと思ったんだけど、就活でなくても、自分で自分を評価するという場面は、現代ではたくさんある。

自己をきちんと見つめて評価するって、たぶん世の中的には良いこととみなされているけど、本当にそうなんだろうか。

自己評価そのものはぜんぜん問題ないし、良いことだと思うけど、それはあくまでも自分による、自分のための評価の場合。

でも、多くの自己評価は、そうはなっていない。

自分で自分を評価してるつもりで、実は他人の目線で評価していることの方がはるかに多い。

あるいは、他人から自分がどう見えるか逆算して、他人に何か言われる前に先回りしてその人がするであろう(と自分が考えている)評価を、自分で先に口にしてしまうこととか。

こういう「他人の目線による」自己評価は、「客観視」という名で奨励されるけど、場合によってはとても危険だ。それはまず間違いなくネガティブなものであり、自分の能力とエネルギーを減殺するから。

その種の自己評価は、多くの場合他人との関わりの中で、あるいは他人との関わりを想定する中で行われる。簡単にいえば、他人からネガティブな評価を受けたくなくて、そして自分が傷つきたくなくて、その前に自分で防御線を張るのが、他人目線の自己評価だ。

つまり、インサイダーでありたいという欲求だったり、集団の中で自分を守ろうとする欲求から来ている(実は他人の介在しないところでは、自分に対して、むしろ傲慢なくらいの自己評価をしてたりする)。

「他人からされるであろうネガティブな評価を先回りして自分がしてしまうこと」なんていうと高級そうだけど、これをもっと簡単な言葉でいうと「卑屈な態度」という。卑屈な態度というのは、もちろん他人から評価はされないので、結局は自分の欲求からはどんどん離れていくんだけど。

それだけでなく、これがエスカレートすると、自分の存在を肯定することがだんだん難しくなってくる。あらかじめ自分を下げておくのは、楽だから、クセになる。

で、最初の話に戻るんだけど、そもそも自分で自分自身のことや、自分のやったこと、自分の創ったものに関して評価する必要って、あるんだろうか。自分がいいと思うことをして、自分がいいと思うものを創って、あとはやりっぱなし、創りっぱなしじゃだめなんだろうか。

それでは進歩や向上がない、と言う人がいると思うけど、それは嘘だ。

人は本気でやってることであれば、自然により良くなろうとするし、より良いものを創ろうとするし、謙虚にもなる。その自然な欲求に従えばいいだけだ。その過程で、実は無意識に本来の意味での自己評価は行われているはず。

もしそうでないとしたら、それはやっていることが向いていないか、本気じゃないということだ。ならば、いくら自己評価をしようが、客観的に分析しようが、他人の評価を参考にしようが、一定以上に向上するはずがないので、やっぱり気にする必要はない。

あえて自己評価をしないようにすることで、逆説的だけど、他人や集団との関係の中でも、本来できるはずのことをして、本来できるはずの貢献もして、本来受けるべき評価を受けられるようになる。そして何よりも、もっと自由になれる。

超・自戒をこめて。
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ストレートな言葉をストレートに受け取れないとすれば [Diary]

「やたらに人を誉めすぎる」と言われることがあって、「だから人になめられるんだ」とか「いいことばっかり言う」とかも言われる。

確かにある時期から、人についていいと思ったことを可能な限りストレートに口にするようにしてるし、往々にしてそれは気持ち悪がられるのだけど(笑)、やめる気はない。

自分がどれだけダメかなんていうことは、改めて他人に指摘されなくても知ってるはず(意識的か無意識的かは別にして)なんだから敢えて口にする必要もなく、逆に自分がのいいところというのは、意外に本人がわかってないものだから。

なんていう理由は後付けで、ただ何かをきちんと口にする機会って、いくらでもありそうでいて、実はそんなにないということを何度も痛感したから。そして、伝えたかったことを伝えずに終わって後悔するのが嫌だから。

そして、人を好きということも同様(別に恋愛的な意味だけじゃなくてね)。

で、ストレートな言葉をストレートに受け取れないとすれば、それはあなたの人間性に問題があるか、私の人間性に問題があるか、どちらかです。
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一時間ランチ感覚 [Diary]

10月に入ってから異様に忙しくなり、特に先週一週間はほとんど昼食をとることもままならず、その上夕食をとることもままならず、深夜まで何も食べないという状態が続いた。

で、なんか体中にみみず腫れみたいなのができて痒いなと思って調べたら、ストレス性のジンマシンだとか。うーん。

だけど、余裕がないときこそ無理にでも余裕が必要ということは身にしみてわかってるので、金曜日くらいはまともなものを食べに行こう! ということで、無理やり1時間こじあけ、4月まで同じ部署だった同僚Nを誘ってランチにいく。

スケジュールを考えれば、どう考えてものんびり1時間ランチしてる暇なんかなく、それは同僚Nの方も同じなんだけど、二つ返事で付き合ってくれた彼女は、強引にでもゆっくりランチすることの価値を知っている。

個人的に、長い間隣に座っていた彼女のそういう部分の感覚を、心底から信頼している。
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レオ・バボータの新作は「楽に生きる」 [レオ・バボータ関連]

レオ・バボータの新作「The Effortless Life: A Manual for Contentment, Mindfulness, & Flow」が出ています。タイトルは「楽に生きる」という感じでしょうか。

以下から購入できます。英語オッケーな方はぜひ。
http://zenhabits.net/effortless/

価格は$15.99に設定されていますが、今回は「いくら払っても(払わなくても)構わない」というモデルになっています。実際、購入画面上で、表示された価格を自分で書き換えられるようになっています。

「価格は$15.99に設定するが、あなたの支払い能力と、あなたがどの程度の価値を感じるかによって、それ以上でも以下でも構わない。まったく支払えないということであれば、無料でも構わない(私はあなたを信頼している。もし1ドルでも支払うことが可能なら、そうしてほしい。実際に無料で入手したなら、見知らぬ人に親切にすることで支払って欲しい」

ということで、ぼくは提示価格通りの$15.99で買いました。

購入すると、表題作だけでなく、過去の何冊かの電子ブック、おまけPDFなどもいっしょにパッケージされた状態でダウンロードできます。もともと単独で有料販売されていたものもあるので、かなりお得ではあります。
  • The Effortless Life: A Manual for Contentment, Mindfulness, & Flow(表題作)
  • The Simple Guide to a Minimalist Life
  • Thriving on Less
  • The Simple Method for Creating Habits

表題作はPDF版、epub版(iPad・iPhone用)、mobi版(Kindle用)が1パックになっています。他はPDFのみです。

iPadとiPhoneユーザーであれば、epub版のファイルをマックまたはPCのiTunesにドラッグ&ドロップしておいてから同期すると、iBookアプリを使って本格的な電子書籍として読めるようになります。



前作は「フリー版がない」という理由で訳すことを控えましたが、今回は訳します。「目標は定めない」のでいつ公開とは言いませんが、年内ぐらい……。(←鬼が笑う)

そして、まだ決めてませんが「支払い」ということに関しては、ある実験をしてみようかと画策してます。今回のレオが採用した支払いモデル、レオが最初というわけじゃないけど、すごく大きな意味があると思うんで。

詳しくはまた別の機会に。
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2000年頃、何もかも良くなる気がしたけど [Thoughts]

2000年前後に、いろんなことが何もかもがこれから良くなっていくような感覚を一瞬だけ抱いたことがあったんだけど、あの感覚はいったいなんだったんだろうと最近よく考える。

日本でもSOHOという概念が徐々に広まり(覚えてますか?)、PCとインターネットの普及で、たとえ勤め人であっても職場に縛られずに働くということが、少なくとも環境面では可能になるつつあった時期。

個人的には当時、もろもろの事情で一度仕事を辞めたあと、徐々に家で仕事ができるようになってきたときだった。

ノマドワークなんていう言葉はまだなかったと思うけど、仕事のスタイルはまさに今でいうノマドワークで、乾電池駆動のNECモバイルギア(懐)をバッグに突っ込んで、家とお客さんとカフェを転々としながら仕事をしていた。

以前勤めていた会社から回してもらった仕事から始めて、つてを辿って少しずつ仕事を広げていったんだけど、自分の仕事に対して会社勤めだった頃にはなかった手応えを感じたこともあったし、実際に仕事の結果を高く評価されることも出てきていた。

自慢じゃないけど、会社員の頃に仕事の内容を評価されたことなんて一度もなかったから、けっこう不思議な感覚だった。自分は別に手に職をもって「独立」したわけじゃなく、状況的にやむを得ず家で仕事をしているだけだったから。

でもしばらくして気づいたのは、子どもの頃からずっと、学校でも会社でも自分につきまとって離れなかった「できると感じるのにできない」「ここまで行けるはずなのに行けない」という感覚を、あまり感じなくなっているということだった。

自分は決して効率の良い人間じゃなくて(知り合いの方はご存じの通り)、相変わらずプロセスはドロドロなんだけど、ドロドロの中から少しずつ形が見えてきて、収束していくプロセスが、会社勤めをしているときとは明らかに違う。

「できる」と感じた状態まで実際にできる、「行ける」と感じる場所まで行けるというのは、自分にとっては夢のようなことなのよ。

その大きな要因は、考えるまでもなく、職場に縛られないで自分のやり方で仕事ができることによるものだった。

縛られるというのは、物理的な場所のこともあるし、仕事の進め方ということもあるし、人との関わりのこともあるし、職場や学校の環境ということもあるし、一言では言えない。

すごくシンプルに言うと、集中できる環境と、手法とプロセスの自由ということになるんだろうけど、たぶんもっと複雑なことだ。

そして、それは具体的にはインターネットとPCというテクノロジーがなければ、自分には手に入らないまま終わるはずのものだった。



とにかく、2000年頃に感じたのはその「これから物ごとは良くなっていく」という感覚の背景には、そんなことがあった。

自分は別に独立ということを意識していたわけではないし、状況が許せば再び就職することに なるかもしれないけど(実際数年後にそうなった)、テクノロジーがこのまま発達すれば、近いうちに会社勤めであっても誰もがこんなふうに自由なスタイルで仕事ができるようになって、そうなればホワイトカラーは今よりもずっと幸せになれるんじゃないかという、そんな単純な希望があった。

でももちろんそんなふうにはならず、場所の自由も手法の自由も手に入らず逆に「セキュリティ」とか「管理」とかの名目で、今までにないほどがんじがらめにされる世界がやってきた。テクノロジーの発達が管理の必要性を高めるという皮肉な世界。



どうしてこんなことを書くかというと、今はあの頃とは全く違う意味で、これからいろんなことが良くなっていくような感覚を感じてるから。周囲のいろんな状況は、あの頃よりもはるかに悪くなってると思うけど。

それは以前のような外的な変化(テクノロジーとか)から来るものではないから、たぶん以前のような失望を味わうことにはならないと思う(実際にいろんなことが良くなるかどうかは別として)。

その感じはまだうまく言葉にはできないんだけど、たぶん希望は外的な環境変化(テクノロジーとか)にはなく、ただ内的な変化を外的な環境変化(テクノロジーとか)で補強することはできる、というような感じ。

て、自分で書いてて意味わかんないけど、たぶんそんなにはずれてないと思う。



ふと思ったんだけど、もしかしたら今、ソーシャルネットワークに大きな可能性を見いだしている人たちの中には、あの頃自分が抱いていたのと同じ種類の希望を抱いている人がいるのかもしれない。

そして、何年かして同じ種類の失望を味わうのかもしれない。根拠はないけど、なんだかそんな気がする。
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若きデイブ・ワイナーがデニス・リッチーにアウトライナーの説明をした話 [アウトライナー]

久しぶりにアウトライナーがらみの話題を。

UNIXとC言語の開発者、デニス・リッチーが10月12日に亡くなったことに関連して、デイブ・ワイナーが書いた「Cold-calling Dennis Ritchie」という短い記事(追悼文、といってもいいと思う)の日本語訳をRenji Talkで公開したので、興味のある方はどうぞ。
→「デニス・リッチーに電話したこと」

当時大学院生だったワイナーが、ベル研究所の大スターだったリッチーに電話をかけて、自分が開発していたプログラミング用エディタの話を親切に聞いてもらった、というもの。

どうしてこれがアウトライナーがらみの話題なのかというと、そのエディタというのが、Pascalの構文に応じて行を階層化して、折りたたんで概要だけ表示させたり、展開して詳細を表示させたり、折りたたんだ状態で構成を入れ替えたりできるというもので、これが後のアウトライナーの原型になっていくから(このあたりの経緯は、ワイナー自身が詳しく書いているので、拙訳「アウトライナーとプログラミング」を読んでくださいませ)。

それにしても、ヒーローであるリッチーと会話したときの、若いワイナーの興奮する気持ちってよくわかる。

昔、マンダラートの今泉さんにお会いしたとき、ちょうどそんな気分だったことを思い出す。そのときのぼくには、ワイナーと違って今泉さんに聞いてもらうべき話なんか何もなかったのだけど。

レオ・バボータ「もう疲れるのは止めよう」 [レオ・バボータ関連]

レオ・バボータのブログZen Habitsより「Tired of Being Tired」の日本語訳を「もう疲れるのは止めよう」として公開しました。
一日中疲れているというのは辛いものだ。私もそんな日々を過ごしてきた。毎日生きるだけで精一杯で、大切なことに取り組むエネルギーが残っていなかった日々のことだ。

まったく、私も長いあいだそんな日々を過ごしてきたのだ。

疲れていると、どんなことも魅力的に思えなくなる。人生が単調に感じられ、意味のあることが達成できなくなる。さらに悪いことに、状況を改善するためのエネルギーが残らなくなる。

最近はそんな日も少ないが、もしそういうことがあれば、私は休むことにしている。私たちは身体が発するシグナルを無視する訓練を受けてしまっている。人生の多くの部分が、疲れていないように思い込もうとすることに費やしているのだ。より生産的になるために。

それは間違っている。そんなことをしても燃え尽きるだけだし、生産性だって上がりはしない。絶対にエネルギーが続かないからだ。身体の言うことに耳を傾けよう——長期的な健康と精神の健全さがそこにかかっている。
詳しく読む

訳しながらどきっとしたのは、自分がここに書かれているカフェイン中毒そのものだということです。

長年悩まされてきた午後の強烈なだるさの原因が、午前中に飲んだコーヒーのカフェインが切れるからだというのは、考えてみれば当たり前ではあるけれど。
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大人の条件2011(パーソナル) [Thoughts]

噂話を恐れない。
噂話に加わらない。
直接聞いた言葉だけを信じる。
流れに身を任せる。
達成できなくても死なない。
貢献できなくても死なない。
月に150時間残業したら死ぬ(かもしれない)。
でも可能な限り丁寧にやる。
でも可能な限り誠実にやる。
物理的に丁寧にも誠実にもできなかったときの結果に責任を感じない。
もっとも心配している事態は起こらない。
好きな人に対して直接好きと言う。
嫌いな人に対して直接にも間接にも沈黙する。
嫌なことは嫌と言葉にする。
怒りは言葉にする。
自分を評価しようとしない。
他人を評価しようとしない。
状況を評価する。
評価を気にしない。
時間を無駄にしない。
話を聞く時間を惜しまない。
共感するエネルギーを惜しまない。
計画しない。
ただやる。
ちゃんと食べる。
ちゃんとセックスする。
ちゃんと愛する。
ちゃんと生きる。
孤独を恐れない。
寂しいのは我慢する。
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