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レオ・バボータ「『ひとりになる』という失われた技術」 [レオ・バボータ関連]

「『ひとりになる』という失われた技術」を公開しました。レオ・バボータ「the lost art of solitude」の日本語訳です。
ひとりになるために修道士になる必要はないし、ひとりを楽しむために世捨て人になる必要もない。

今日のような過剰接続社会にあっては、ひとりになるということ自体が失われた技術のようなものだ。このグローバル社会のすばらしさに文句をつけるつもりはないが、そこから一歩下がってみる機会を定期的に持つ必要はあるのではないだろうか。

私のお気に入りは、海辺にひとり静かに座って瞑想すること、ひとりで自分の思考と向き合いながら散歩すること、ネットを切断してただ文章を書くこと、優れた小説を静かに読むこと、ひとりで入浴することなどだ。

誤解しないでほしい。家族といっしょに過ごすこと、友人と散歩すること、妻と夕日を眺めること、子どもと一緒に本を読むことなども、間違いなく私は愛している。

それでもひとりになることは絶対に必要だし、その必要性はかつてないほど増している。
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学校について大人に言って欲しかった言葉 [Thoughts]

うちには子どもがいないから、子どもや学校の問題については語る資格はないかもしれない。そういう遠慮みたいなものがちょっとあったんだけど、よく考えてみるとそれは理屈に合っていない。

子どもはいないけど、ぼくはかつて子どもだったことがある。そしてかつて学校に通っていたことがある。

今の基準でいえば、おそらく「不登校」に分類される子どもだった。「いじめ」がどんなものかについてもおそらく知っている。その渦中へと毎日入っていくということがどんな気持ちのするものかも。いつの間にかいじめる側に回っている集団の力学も。自分はいじめる側に回っていたのだと気づいたときの自己嫌悪と恥ずかしさと悲しさも。



今思えば、自分自身がいちばん言ってほしかった言葉は、「学校なんて行かなくてもいい」という言葉だったと思う。

それも「仕方なく」じゃなく、明るくポジティブに強い調子で。

学校は世界のほんの一部にすぎない。学校の外にはもっとずっと広い世界がある。人生の素晴らしいことはこれから起こる。しかも学校ではない場所で起こる。だから学校なんかに命をかけちゃいけない。逃げるとか逃げないとか、そんなことはどうでもいい。そんなことは全く大事じゃない。そんなこと言うやつは糞くらえだ。

当時、そんなふうに言い切ってくれる素敵な大人がいてくれたらよかったのにと思う。

自分は適度に弱かったから、自分で学校に行かないことを選択した。おそらく親も(悩みつつ)それを黙認してくれた。でも、そうじゃない環境に置かれているやつもいる。



亡くなった義理の兄は中学校の教師だった。しかも、葬儀にたくさんやってきた教え子たちの様子を見ていると、おそらく素晴らしい教師だった。

でも現場に義兄のような素晴らしい教師が(おそらくたくさん)存在しているという事実を持ってしても、汚らしいいじめが待っている学校なんかに行く必要はないという結論は、絶対に変わらない。
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レオ・バボータ「子どもたちが身につけるべき9つのスキル」 [レオ・バボータ関連]

「子どもたちが身につけるべき9つのスキル」を公開しました。レオ・バボータ「9 Essential Skills Kids Should Learn」の日本語訳です。

少し前の記事だけど、子どもにとって学校っていったい何なんだろうとずっと考えていたところだったから(今のニュースを見てたら考えないわけにいかない)、この機会にということで。今の日本の学校の問題と直接関係ないように思えるかもしれないけど、たぶんそんなことはない、気がする。
今日の学校制度の中で学ぶ子どもたちは、明日の世界に生きるための準備が充分にできてはいない。

私は企業の世界から行政の世界へ、そして絶えず変わり続けるオンラインの世界へと移ってきた人間だ。だから昨日までの世界のあり方がいかに急速に時代に合わなくなってきているか知っている。私は新聞業界で修行したのだが、そこでは誰もが自分たちは永久に時代遅れになることはないと信じていた。しかし今、新聞は馬車と同じ運命を辿るだろうと私は考えている。

残念なことに、私が教育を受けた学校制度は、はやりすたりによる些細な変化を除けば、世界は本質的に普遍であるという前提に立っていた。私たちは、2000年代に何が起こり得るかではなく、1980年代に最も必要とされる仕事を前提にした技能の訓練を受けたのだ。

20年後の生活がどんなふうになっているかなど、誰も本当には知り得ないということを考えれば、それもわからないではない。1980年代のことを考えてみよう。パーソナル・コンピューターはまだ生まれたばかり、ファクスが最先端のコミュニケーション・テクノロジーで、今日私たちが知るようなインターネットは、ウィリアム・ギブソンのような空想科学小説作家の夢でしかなかった時代だ。

世界が自分に何をもたらそうとしているかなど、私たちには知りようがなかったのだ。

そして、ここにひとつの事実がある。今も私たちは知らないままなのだ。永久にそうなのだ。私たちが未来をうまく予測できた試しはない。だから、将来についてわかっているかのように子どもたちを育て、教育することは、賢明とは言えない。
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一瞬にして歳を取り、一瞬にして成長する [Diary]

「人は一瞬にして歳を取るんだ」と言ったのは「五反田君」だったけど、10代・20代の頃には実感としてよくわからなかった。その意味が本当にわかるようになってきたのは、30代に入ってからかもしれない。

何年かに一度、「あ、今歳とった!」と感じる瞬間がある(逆にそれ以外にはほとんど歳を取ったと感じないんだけど、それはそれで問題かも)。

きっかけは誰かが発した言葉のこともあるし、ふと気づいてしまった自分の心の動きのこともあるし、自分の周囲で発した小さな事件を目にしたこともあるし、特に何のきっかけもないこともあるけど、多くの場合人との関係に関わっている。大抵の場合、気持ちよかったり楽しかったりする経験ではない。だいたい想像がつくと思うけど。

その感覚は、人生の中に打ち込まれたくさびみたいにずっと消えない。ずっと時間が経ってからも「あのとき自分は歳を取ったなあ」とはっきり覚えている(たとえば最近で言うとそれは2009年の2月末に起こった)。



でも、今週になって今さらのように気づいたことがあって、それは人は一瞬にして歳を取るけど、同時に一瞬にして成長するのだということ。

先週から今週にかけてのある瞬間、本当に文字通り「あ、今自分は成長した」と感じた瞬間があって。

具体的に言えば「自分がある人に感じる好意は独立した絶対的なもので、その人が自分に何をしてくれるかとはまったく関係なくていい」と実感したということなんだけど、これ「まったく意味がわからない」という人もいれば、「そんなことに今さら気づいたのか」という人もいるかもしれないな。

とにかくその唐突感と絶対感は「一瞬にして歳を取る」ことと変わらないんだけど、自分の中に残る感覚はずっとポジティブなものなのだった。
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都市 [Diary]

二日とも休める週末があれば、少なくとも一日はスタバに入り浸ってるんだけど、問題は休日のスタバは混んでいるということ。

観光地や商業施設の中はもちろん、住宅街の駅のそばとかもダメ。スタバに席がなくて街をさまようのって、やだよね。

そんなわけで、人のいないスタバをいつも探してるけど、まあそんなところに出店はしないよな。

で、ある日曜日、逆転の発想で都心方面にわざわざ出かけてみた。フリーだった頃によく仕事をもらっていた会社のそばにあるスタバ。で、予想通りこれが空いていてすごくいいので、何週間か立て続けに出かけた。

大きなオフィスビルの中だから、平日にはそれなりに混んでるはずだけど、日曜日に席がないことはまずない。

店内は広くて人が少なくて、窓からは休日の人気のないオフィス街が見える。

スタバを出たら、ちょっと周囲を歩いてみる。オフィス街といってもこのあたりは緑が多いし、なんといってもいいのはチェーン店や商業施設が少ないこと。

平日には決して活気のない場所ではないけど、休日は単に人が歩いてないだけで、どことなく寂れていて寒々しい感じもする。

北欧系企業が入ったオフィスビルに、巨大なタワーマンションに、外交官ナンバーの高級車に、古い民家に、貯水池に、公園に、古いホテルに、錆の浮いた工場の看板に、空を見上げれば東京タワー。

そういう中を歩いてると、なぜか二人でいても一人でいるときの感じを思い出させてくれる。

ときどき、そういう場所がある。たぶん、そういう場所が好きなんだと思う。そして、個人的にはそういう場所こそが「都市」なんだと思っている。
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不思議なほど残念な気持ち [Diary]

少し前の話だけど、ゴールデンウィーク中、めずらしく職場の同僚とプライベートで遊びにいくということをした。

横浜スタジアムで野球観て、中華街でみんなでごはん食べて。

今の職場で働くようになって8年以上になるけど、仕事帰りにごはんを食べたりお酒を飲んだりということはあっても、休みの日に同僚といっしょに遊びに出かけるという経験は数えるほどしかない。

基本的に職場というのは学校と同じ、あくまでも便宜的な集団にすぎないと思っているし、月並みな表現だけど、プライベートとは切り分けたい。

でも、そのときのメンバーは全員人間としてとても好きなので、彼らとなら休日の時間をいっしょに過ごしてもいいと思う。2年以上ひとつの職場に止まったことのなかった自分を8年もつなぎ止めてきたのは、間違いなく彼らの存在があったから。

でも、それを考えた上でも、そろそろ潮時なのかもしれないとも考えている。あるいは、もしかしたら長くこの場所にいすぎたのかもしれないとも。

今のままの状況が続くなら、遠くない将来ここを離れなければならないかもしれない。この場所にいることによって、守らなければならないものが守れないのなら。

でも、心のどこかではそうならないことを願ってるような気もするし、そうならないための方法はまだあるような気もしている。

30代半ばまで、ほとんどの期間まともに定職に就かず、「カイシャ」という言葉に対して「ガッコウ」と同じくらい拒否反応を起こし、今の職場に来てからも「いつ辞めても構わない」と公言してた自分がそんなことを言うのも変だけど。

そもそもこういう気持ちになること自体が、不思議なほど残念なんだね。

ただ決めているのは、ぎりぎりまで方法を探すこと。方法がないことが確実になったら、その後は迷わないということ。
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まだ本当には思い知っていないということなのか [Thoughts]

よくありがちなストーリーの展開の中で個人的にいちばん好きじゃないのは、「失ってからそれがどのくらい大切だったか理解する」というやつ。

仕事にかまけて家族を顧みなかった夫が、家族が壊れて(あるいは病気になって、あるいは他界して)初めて失ったものの大きさに気づく、みたいな。

甘えるな、と言いたい。

というようなオピニオンを長い間持っていた自分が、今や自分自身でそのようなものになっているということは、あまり認めたくない事実だけど事実だ。

もう15年以上結婚してるけど、その時間の蓄積がなければ生活が破綻していても不思議はない。

そして、その時間の蓄積に甘えていると、取り返しのつかないことになるかもしれない。

そんな話を同僚にしてたら、「Tak.さんはわかってるのに、行動が伴ってないと思います」と言われた。

このブログにしばしば登場するこの同僚は、社内で最もきついことを言ってくる人だけど(笑)、同時に社内で最も信頼してるので、彼女の言うことは素直に聞くことにしている。

ひょっとして自分も「失ってはじめてその大切さが理解できる」ような人間になってしまったのだろうか、とけっこう真剣に考えてみたんだけど、たぶんそうじゃない。

最大の問題は、重要なことがわかっていてもそれができないことだ。それは何もワークライフバランス(という言葉は嫌いだけど)に限った話じゃない。

「いちばん大事なことをいちばん大事にできない」というのは、たぶんぼくらの住んでいる社会の最大の病だ。

職場でも夫婦でも親子でも政治でも経済でも、何か大事なことをしようとすると、大事じゃないことが立ちふさがる。そして不思議なほど大事じゃないことの方が優先される。

なんでだろう?

少なくともそれは、テクニックやツールで解決する問題ではない。もっと根深いものだ。

じゃあ、自分が今まで生きてきて、本当に大事なものを優先できた数少ないケースって、どんなときだっただろう。

心の底から思い知ったときだ。

ということは、自分も社会も、職場も夫婦も親子も政治も経済も、まだ本当には思い知っていないということなのか。

と、そこまで考えて愕然としているところ。
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レオ・バボータ「時間を無駄にすることが罪ではない理由」 [レオ・バボータ関連]

Renji Talkで「時間を無駄にすることが罪ではない理由」を公開。レオ・バボータ「Why Killing Time Isn’t a Sin」(Zen Habbitsより)の日本語訳です。
最近、ある人の書いた旅行のコツについての文章を読む機会があった。彼は「時間を無駄にすることは罪である」ことをいつも心がけ、たとえ飛行機に乗っているときでも、空き時間を少しも漏らさず活用しているという。「良い本を読む。ロゼッタストーンで外国語を学ぶ。しばらく連絡を取っていない世界中の友人たちに手紙を書く」という具合だ。

読書をしたり外国語を学んだり友人に手紙を書くことに全く異論はない。私が賛成できないのは、空き時間は効率的に活用されなければならないという考え方だ。かつての私ならその考え方に完全に賛同していたが、今では全く異なる考え方をしている。人生は生きるためにある。生産性のためにあるのではない。
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レオ・バボータ「向上の欲求を捨てる」 [レオ・バボータ関連]

Renji Talkで「向上の欲求を捨てる」を公開。レオ・バボータ「Quashing the Self-Improvement Urge」(Zen Habbitsより)の日本語訳です。
あなたは既に1000個の目標を達成したかもしれない。しかし、あなたの腹筋は割れているだろうか。あなたのおっぱいは大きくてハリがあるだろうか。肌のお手入れは完璧だろうか。古典文学の名作を全て読んだだろうか。高級ワインや優れた芸術、クラシック、ジャズからパンク、ロックに至る素晴らしい音楽家についての知識があるだろうか。起業家として、あるいは著述家として成功しているだろうか。数カ国語を話せるだろうか。世界を旅したことがあるだろうか。所有するモノを100個以下まで減らしただろうか。家はミニマルだろうか。ランニングで好タイムを出せるだろうか。100マイルレースを走っただろうか。クロスフィットができるだろうか。BIG3(ベンチプレス・スクワット・デッドリフト)で1000ポンド上げることができるだろうか。家は完璧だろうか。本格的な料理が作れるだろうか。親としての役割を完璧に果たしているだろうか。完璧なワーク・ライフ・バランスを維持しているだろうか。ヨガと瞑想とジャグリングと手品ができるだろうか。旨いコーヒーと旨いお茶を煎れられるだろうか。旨いビールを醸造できるだろうか。シェリーやシェイクスピアやホーマーを暗唱できるだろうか。ナンパが上手いだろうか。非の打ち所のない友人であり、恋人だろうか。情熱的な夫だろうか。良妻だろうか。一流の職人だろうか。プログラマー兼ハッカーだろうか。手芸ができるだろうか。日曜大工が得意だろうか。不動産投資に造詣が深いだろうか。完璧な目標管理システムを知っているだろうか。完璧なTo-Do管理ソフトを使っているだろうか。携帯電話は彼のと同じくらい優れているだろうか。バッグは彼女のと同じくらい素敵だろうか。かわいいブーツを持っているだろうか。ひげそりは男らしいだろうか。借金を全て返済しただろうか。車を手放しただろうか。グルテンを摂らない食生活を送っているだろうか。保護施設でチャリティ活動やボランティア活動をしているだろうか。アフリカの子どもたちのために学校を作っただろうか。あなたのテレビは私のテレビと同じくらい大きいだろうか。あるいはあなたのペニスは。
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今伝えなければならないこと今伝え、今言わなければならないことを今言う [Thoughts]

これは「冬のどどんが団」のマンナカさんが、団員ブログに書いていた言葉。

(「冬のどどんが団」は、南町田を拠点に活動する和太鼓グループ。ぼくは勝手に「非公式ファンクラブ」会長です)。

最初に読んだときはそうでもなかったけど、時間がたつにつれて、実はこれって人生で五本指に入るくらい大事なことかもしれない、という気がしてきた。

特に人と関わるときにはね。

身近でいくつか目にした、後戻りできない地点まで行ってしまったのかもしれない人間関係たちのことを、ずっと考えていたせいもあるかもしれない。

必要なときに伝えるべきことを伝え、言葉にするべきことを言葉にしていたら、もしかしたらこんなところまで来なくても済んだのかもしれない人間関係。

伝えることを躊躇していたのか。
まだ大丈夫と思っていたのか。
面倒くさかったのか。
照れくさかったのか。
語彙が足りなかったのか。
伝えなくても伝わると思っていたのか。

言葉にするということは想像以上にしんどいことだ。特に関係が近いほど。そして積み重ねた時間が長いほど。

でも思うんだけど、人との関係って、言葉そのものなのだ。積み重ねてきた言葉そのものと、なんとか言葉にしようともがいた時間。「言葉がいらない間柄」なんて大嘘だぜ。

「言葉にしないと伝わらないことがある。言葉にすると誤解されることがある。けれど言葉にしなければ始まらない!」

うむ。
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