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アウトライン・プロセッシングは「アウトラインづくり」ではない [アウトライナー]

アウトライン・プロセッシングを単なる「アウトラインづくり」だと捉えてしまうと、その可能性を限定してしまう。

同様に、アウトライナー(アウトライン・プロセッサー)は「アウトラインづくり」の道具と捉えるべきではない。

もちろん、そう捉えられても仕方のない名前が悪いのだけど。

アウトライン・プロセッシングは「アウトラインの形式を利用してコンテンツの内容を把握し、操作する技術」と考えた方がいい。そして、アウトライナーはそのための道具。

そうすれば、その用途と可能性はほとんど無限であることがわかる。

書くこと。
整理すること。
考えること。
伝えること。
説得すること。
反論すること。
読むこと。
要約すること。
理解すること。
管理すること。
ロジックを組み立てること。
体系づけること。
体系を壊すこと。

きっと、まだまだたくさんあるね。
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愛妻家、アウトロー、結婚の残り10% [Thoughts]

おそらく結婚を意識した相手がいる(しかし迷っている)と思われる20代の女性から、「Tak.さんは結婚して良かったと思いますか?」と聞かれた。



なぜか周辺では「Tak.さんは愛妻家」というイメージが定着している。ぼくのことをあまり深く知らない女性から「うらやましい」とか言われることもある。

社交辞令なんだろうと思ってたけど、必ずしもそればかりじゃないことが最近わかってきた。

それはたぶん、未婚者が結婚について希望を持てるような発言をする既婚者があまりにも少ない中で、結婚生活についてネガティブなことを一切言わないからだ。

その上、
やさしそうだし。
家事とかやりそうだし。
家庭優先してくれそうだし。



だけどそういう人たちも、何かの機会にもう少し話がディテールに及んで「冷たい雨の降る日曜日に一人でとぼとぼ杉並区役所の休日受付窓口に結婚届を出した」とか「結婚してもう15年以上たつけど両家の親戚にはまだ挨拶してないし」とか「2年くらい別居してた」とか「寝室は最初から別だし」いう話をすると、なんとなく雰囲気が微妙になってくる。

そして、
「プロポーズ? しなかった」
「ご両親に挨拶? 行かなかった」
「結婚式? あげてない」
「結婚指輪? 買わなかった」
「新婚旅行? 行ってない」

というあたりでイメージが「Tak.さんはアウトロー」に変容し、そればかりか「お金なかったんですか? 今からでもウェディングドレス着せてあげたくないんですか? どうなんですか?」と追求してきた人も(複数)いた。



不思議に思うのは、いい歳をした大人で、これまでいろんなものを見て、いろんな経験を積んできたはずなのに、こと結婚のことになるととても単純で表面的で思考停止に陥った発言をする人が多いこと。

ぼくのことを「いいダンナさん」という人は、いったいどのような概念を指して「いいダンナさん」と言ってるのだろう?

あるいは、15年以上結婚生活を続けてることに対して「どっちが我慢してるんですか?」と質問した人がいたけど、その人の認識では、結婚生活というのはどちらかが一方的に我慢しないと成立しないものなんだろうか。



結婚についのて話題ってどういうわけか「(事情を知った)既婚者が(事情を知らない/幻想を持った)未婚者に理想とは違う現実をちょっと自嘲的に説いて聞かせる」という構造になってることが多い。

でもその根拠を問うと「あなたもそのうちわかるわよ」くらいの説明しかない。

そして共通してるのは、結婚という「関係」のもう一方の当事者である自らの責任や努力についてはなんら言及されないところ。

当たり前だけど、夫婦というのは「関係」だから、どちらか一方だけでは成立しないものだ。もしぼくが「愛妻家」とか「いいダンナさん」に見えるとしたら、それは夫婦「関係」が、そのように見える状況を生み出しているということだ。



以前にも書いたけど、何かを作ろうとするとき、いちばん時間と手間と労力がかかるのは、最後の仕上げの10%だし、そこで必要なものはテクニックでもハックでもなくプリミティブな「気合い」であることが多い。

結婚にもたぶん同じことが当てはまる。「結婚」自体は二人の大人が個別に決断すればできる(法律上の結婚であるかどうかに関わらず)。でも、そこから本当の意味で生活を確立するまでの残り10%の「仕上げ」の方が、はるかに時間と労力(そして気合いが)が必要だ。

昔は「夫婦」のあるべきカタチが定まっていた(と思われていた)から、良くも悪くもそれに合わせればいいというところがあったかもしれない。でも今はそうじゃない。

非常にリアルに書けば、対外的な夫婦としての振るまい方から互いの体質から空間感覚から食べ物の好みから両親親戚とのつきあい方から仕事のあり方から病気からセックスから掃除のやり方からテレビの見方から風呂の入り方からけんかの仕方から寝相から洗濯物のたたみ方までありとあらゆることに及ぶ。

どんな細かいことも関係の中であり方が決まる。一方だけでは成立しない(結果的に役割分担がされるとしても@洗濯苦手)。

双方が心地よくて納得できるカタチを、自分たちのアタマでゼロから創りあげて、なおかつ時代と人生の状況に合わせて維持していかなければならない。しかも確立して安定稼働してると思ってたことが、実は幻想だったことを思い知らされることもしばしばある。

それは昔からの常識とか、人生の先輩(=他人)のアドバイスとか、雑誌の記事とか、そんなものが簡単に通用するようなものじゃない、と思う。

そのしんどい仕上げ工程に正面から向き合わない状態での結婚が期待と違うことを「あなたにもそのうちわかるわよ」とか「私も結婚前はそんなふうに思っていたものよ…」で片付けてしまうのは、あるいは目に見える部分を拾い上げて「いいダンナさんね」というのは、あまりにおめでたいんじゃないかな。



というところでようやく前提をクリアしたから言うけど、個人的には結婚してとても良かったと思っている。

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物理的につながり、物理的に切れる [Thoughts]

携帯電話がない頃、電話をかけるという行為には「線」を介して「物理的につながる」感覚が確かにあった気がする。裏返せば、電話が終われば「切れてしまう」という感覚。

特に公衆電話の場合、手持ちのコイン、あるいはテレカが底をつけば、自分の意思とは関係なく切れてしまう。

大事なことを話している途中でも、必死で何か弁明している途中でも、つながりは非情に切断される。文字通りロープが切れて空中に放り出されるみたいな感じ。



まだ実家に住んでいた頃、友人の女の子から夜中に電話がかかってきたことがあった。時間は深夜1時ちかく。携帯なんかない時代だから、当然家の固定電話。電話をかける時間としてはかなり非常識な時間。

それは、不倫相手が帰ってしまったホテルの部屋からの電話だった。長い沈黙の後彼女は言った。

あのね、今、ホテル。 19階のすごく夜景がきれいな部屋。 ひとり。目が覚めたら、いなかったの。 置いてかれちゃったよ。

そのときぼくが感じた彼女の痛みは、確かに「線」を介して直接伝わってきたのだとしか思えない、生々しくて直接的なものだった。

同時に、その「線」を通じて(少なくとも今この瞬間は)自分が彼女を物理的につなぎ止めているのだという感覚もあった。どこにつなぎ止めているのかはわからないけど、とにかく今はこの「線」を離してはいけない、切ってはいけないという切実な感覚。

だからといって何か気の利いたことができるわけでもなく(またそんなことを求められているわけでもなく)、

「行こうか?」
「アホじゃない(笑)」
「だよね」

みたいな間の抜けた会話をしばらく交わしたあと、普通に電話を切った。ドラマチックなことは何もなし。

でも電話を終えて気がつくと、受話器のコードを右手で強く握っていた。手に跡がついて軽い痛みが残るくらい。



もちろん「通信」の本質には関係のない話だし、だから昔の方が良かったなととは思わない。

それでも、物理的な「線」を介したリアルな接続感は、今の通信手段には求め得ないものなのかもしれないと思う。

そして肉体感覚を伴う分、記憶される場所も少しだけ違うのかもしれない、とも。
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孤独に関係したいくつかの引用 [Diary]

「本当に孤独な人間は自分を孤独だなどとは言わないものだ」(定説)
「人はみな孤独である」(一般論)
「男ってもんはな・・・」(寅さん)
「マネジメントってもんはな・・・」(上司)
「お前、組合でもつくるつもりなのか?」(店長)
「先週の私と今週の私は違いますから」(同僚)
「にゃあ。にゃあ。にゃあ」(猫)
「がおー」(ライオン)
「はい、自宅用です」(TENGA購入)
「ひとりスイカ割り」(大田区在住)
「もう少しだ。もう少しだ。」(らせん方程式)
「世界ばかりが沈んでいくんだ」(少年)
「暗い嵐の夜だった」(スヌーピー)
「♪ともだちひゃくにんできるかな」(歌)
「らぱぱん・ぱん」(リトルドラマーボーイ)
「星の存在を思い出すのは恋したときだけだ」(知人)
「孤独は共有することができないという事実は私をたまらなく孤独にさせる」(通りすがり)
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アウトライナーとEvernote、記憶と思考、体系と破壊 [アウトライナー]

cube(@simplesynthesis)さんの記事「目に見えるカタチは時としてその内実を表す、ということーEvernoteとアウトライナー:LawDesiGn」を読んだ。

とてもとても興味深い記事。そしてちょっと考えるよりずっと深い(ぼくが以前書いた記事の中で触れながら、結論を出せなかった問題に触れている)。



以前書いた記事で触れた疑問というのはこんな内容。アウトライナー使いの立場から、Evernoteについて感じたこと。
どうして同じ知的活動であるはずの〈記憶〉と〈思考〉とで道具のカタチが違うんだろう? 〈記憶〉は〈思考〉を誘発し、〈思考〉した結果は〈記憶〉されるはず。
「アウトライナー・フリーク的Evernote論」

これに対して、cubeさんは上記の記事で以下のように答えてくれている。
その答えとして思うのは、それこそがまさに人の〈記憶〉と思考の仕方だから。つまり、大多数の人にとって〈記憶〉とは〈思考〉の結果ではない、ということじゃないだろうか。
目に見えるカタチは時としてその内実を表す、ということーEvernoteとアウトライナー:LawDesiGn

その答えに至る議論は、cubeさんの記事をぜひ読んでほしい。

ぼく自身は、興味深く読みつつ、そして納得しつつ〈記憶〉と〈思考〉の関係についてはまだうまく消化できていない。

ただ、cubeさんの記事を読んでいて、長い間考え続けてきたことの答えの一端に、ほんのちょっとだけ手が触れたような気がした。



「どうしてそんなにアウトライナーにこだわるのか」と言われることがある。

確かに、自分ほどアウトライナーのことを考え続けてきた人間は、そんなにたくさんはいないと思う。

その理由は簡単で、おそらく大多数の人よりもずっとずっと切実に、アウトライナーを必要としてきたからだ。

アウトライナーについてのサイトを作ろうと思ったのだって、アウトライナーについて自分が思っていることを何かの形にしないと、きっと自分は成仏できない(笑)と思ったからだし。



長年アウトライナーについて考える中でわかってきたことは、どうやら自分はトップダウン思考がうまくできないらしいということだ。

決められた枠組みに沿って思考することができない。決められた手順でものごとを進めることができない。手をつけてみないと何をどうすればいいのかわからない。自分の中でいったん解体して組み立て直す作業をしないと、消化することができない。

小学校高学年以降、どれほど勉強しようと願ってもそれをすることができなかった。

みんながやっているように教科書や参考書の内容を頭に入れようとするだけで、半ばパニックになった。わかりやすく順を追って書かれているはずなのに、それを追っていくことができない。

最終的にやったことは、頭に入れよう、理解しようとすること自体を放棄することだった。

かわりに、教科書でも参考書でも、頭から写経のように何度も書き写す。次に頭から自分の言葉に置き換えながら書き直す。何回も書き直しているうちに文面は原型をとどめないくらいになる。そこまでくる頃には内容は頭に焼き付いている。

それこそ、人の5倍くらい時間をかけて。



しかし、cubeさんが書いている通り「世の中で生きていくために必要なのはトップダウン思考」だ。「勉強ができる人」「仕事ができる人」とは、それができる人のことだ。

そして上の話から想像がつく通り、ぼくは放っておいたら勉強も仕事もぜんぜんできない人だ。

文字通り人の5倍くらい時間をかけないと、「ものごとを分解しどういう手順で成り立っているのか、その仕組みを分析する」ことができないから。

しかしアウトライナーは、ものごとの成り立ちを「アウトライン」というカタチで目に見えるようしてくれるだけでなく、物理的に組み替えてシミュレーションさせてくれる。

アウトライナーを使うようになって気がついたのは、そうすることで「何度も書き写して自分の言葉で書き直す」という煩雑この上ないプロセスを、ショートカットできるということ。

ぼくは文字通り「世の中で生きていく」ために、アウトライナーの助けを借りてまるでトップダウン思考ができているかのように振る舞ってきたような気がする。

だからこそ、自分にとっては〈記憶〉と〈思考〉は不可分のものだという強い感覚がある。



Evernoteのコンセプトは「記憶する」ことであり、そのことがEvernoteのカタチ(仕様)に現れている、とcubeさんはいう。一方でアウトライナーについては、
アウトライナーにいう〈思考〉は、この体系化(あるいは体系化に基づく〈記憶〉)の更に先にあるもの。
既にある体系を壊すもの。
Evernoteよりももっとずっと暴力的なもの。
目に見えるカタチは時としてその内実を表す、ということーEvernoteとアウトライナー:LawDesiGn

これ、今まで目にしてきたアウトライナーについてのいろんな説明の中で、おそらく最も共感した言葉のひとつかもしれない。そう、アウトライナーは暴力性・破壊性を持った存在だ。

それでも敢えて思うんだけど、それは体系化(あるいは体系化に基づく〈記憶〉)とは別次元の話なんだろうか。



というところで、結論は出ないまま今日のところはおしまい。cubeさんの言ってることを完全には読み切れてない気もするので、もう少し考えてみる。

でも、この問題は自分にとってとても重要な何かとつながってる気がする。そして、そのことについて考えることはとても楽しい。昔は辛かったけど。
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アウトラインぽくない文章をアウトライナーで書く [アウトライナー]

一般的にアウトライナーは、アウトラインを持った構造的な文章を書くためのものだと思われている。実際その通りなんだけど、それはアウトライナーの用途のごく一部にしかすぎない。

実際、このブログの記事はアウトライナーで書いてるけど、かっちりとしたアウトラインを持った記事はほとんどない。

じゃあ、なんのためにアウトライナーを使ってるかというと、文章の編集のためにアウトライナーの機能を使っているのだ。その意味では、アウトライナーをエディタとして使っている、と言えるかもしれない。



アウトライナーを文章エディタとして使うコツその1。たとえ見出しを持たない記事でも、アウトライナーの機能を活かすために「仮見出し」をつけること。

仮見出しの使い道はいろいろある。

途中まで書いた段階で、内容のまとまりごとに仮見出しをつける。アウトラインを折りたためば、ここまでの流れを一目で見渡せるので、うまく流れていない部分、足りない部分、不要な部分の見極めが楽にできる。

大きなテキストの固まりを移動したくなったら、その部分の冒頭に仮の見出しをつけて、移動したい範囲全体を下位階層にくくってしまう。折りたたんでその見出しだけをコピペすれば、通常のエディタでコピペするよりもずっと楽にテキストの固まりを操作できる。あくまでも移動する範囲をくくるためのものなので、見出しと内容とは無関係でもよい。

不要だと思ったパーツは、末尾に「未使用」という仮見出しを立てて、とりあえずその下に移動しておく。

文章を引き締めるために不要な部分のカットが不可欠だけど、せっかく書いたものを消すのはけっこう勇気がいる。でも「未使用」見出しの下にとりあえず「移動」という形を取ることで、その勇気とコストをほぼゼロにできる(実際には気が変わって復活させることはほとんどないのだけど)。

もちろん、流れの悪いところの入れ替えは、アウトライナーが得意とするところだ。



全体の流れができてきたら、今度はもっと細かいセンテンスレベルの操作にもアウトライナーは役に立つ。

アウトライナーを文章エディタとして使うコツその2。

できるだけ
細かく
改行しながら
(句読点ごとに、
下手すると文節ごとに)
入力していくこと。
こんなふうに。
こうすることで、
アウトライナーの持つ
トピックの
入れ替え機能を、
文節単位で
使うことができる。

OmniOutlinerであれば[ctrl]+[cmd]+上下カーソルキーで、トピックを上下に移動することができる。うまく使うと、コピペを使わずに「文章」の流れを整えていくことができる。もちろん適宜接続詞を足したり重複を削除したりしながらだけど。

個人的には、このやり方がいちばん文章のリズムをコントロールしやすい。



OmniOutlinerやWorkFlowyであれば、アウトライン上でトピックを結合できるので、やろうと思えばそのまま完成品の文章まで持っていくこともできる(OPAL、Fargoはそれができない)。

ぼく自身はメインでOmniOutlinerを使ってるけど、最後の仕上げはテキストエディタ(Jedit)で行っている。

文節単位で細かく改行された文章を、Jedit Xの「改行/プリフィックスの削除」の機能を使って結合する。そして読みながら適宜改行を入れたり句読点を追加する。

最後に仮見出しを削除する。ただし、仮見出しのあった場所に「■」を入れることが多い。これはたぶん、cubeさん(@simplesynthesis)の真似。「■」はピースを象徴する記号のようなもの。



具体例。

以下は、少し前に書いた「言葉のピースの実験場、そして読んでもらうこと」という記事の、最終段階のアウトライン。上の手順でいうと、Jeditに貼り付ける寸前の状態。
http://www012.upp.so-net.ne.jp/renjitalk/wordpiece_example/

実際のアウトラインを、OmniOutlinerの「ダイナミックHTMLとして書き出す」機能を使ってウェブページとして書き出したもの。

内容的には(リンクとかの細かい部分を除いて)ほぼほぼ完成している。ただし完成版では「■」が入っているところには仮見出しが入っている。本文は細かく改行された状態になっている。そして「未使用」見出しの下には、最終的には使わずに切り落としたパーツが入ったままになっている。

本来なら人に見せるようなものじゃないんだけど、上で書いた使い方のイメージがいちばん伝わりやすいのは、たぶん本当のナマのアウトラインなんじゃないかと思う。

なおかつ、自分だったら他人の作るアウトラインほど興味深いものもないので(みんな、アウトラインをさらそう!)。
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ここにはいない猫の名前を呼んだ罪 [Diary]

チョビが突然帰ってきた夢を見た。

チョビはハスキー犬、ではなく子どもの頃実家で飼っていた猫。中学二年のときに死んだ。そのチョビが、帰ってきた夢。



明け方、窓の外で聞き慣れた鳴き声がする(そう、30年以上聞いてなくても、その声は「聞き慣れて」いる)。

祖母が起き出してきて窓を開ける(祖母も20年近く前に亡くなっている)。

吹き込んでくる冷たい風の中、祖母が「チョビなのかい?」と呼びかける。聞き慣れた鳴き声がそれに答える。

「やっぱりチョビなのね?」

起き出して祖母と一緒に窓から顔を出す。姿は見えない。でも、呼びかけるまでもなくその声がチョビであることはわかっている。

チョビが帰ってきたのなら、今日は全ての予定をキャンセルしようと思う。仕事も友人と会う約束も。彼女だって、チョビには会ったことがない。チョビの好きななまり節と海苔を買ってこないと。

でも、チョビの姿はどこにも見えない。すぐ近くで声がするのに。外では雪が舞い始めている。早く窓を閉めないと、祖母の体にさわる。祖母の青白い足が冷たく冷えているのがわかる。でも、窓を閉めてしまったら二度とチョビに会えないことをぼくは知っている。

大きな声でチョビを呼ぶ。それからもう一回。そして突然、チョビが帰ってくるはずなどないことに気づく。ぼくは急いで窓を閉めようとする。でも閉まらない。祖母が窓を押さえているのだと思う。

祖母の手を思いっきり振り払う。そしてそのときの自分の乱暴さにぞっとする。あわてて祖母を助け起こそうとする。でも祖母の姿はどこにもない。部屋は暗く冷え切っている。自分の他に誰もいない。

そうだ、チョビだけじゃなく祖母もここにいるはずがないのだ、と思う。それだけじゃない。さっきまでチョビを紹介しようと思っていた彼女も、今日は休もうと思った仕事も、チョビや祖母と同じように、最初から存在しなかったのだ。

自分がひとりだということを、忘れていたのだ。

きっと、ずっと昔に死んだ猫の帰りを喜んだ報いだ、と思う。もうここにはいない猫の名前を呼んだ罪。



そんな夢をみたのは、たぶん昨日の夜、散歩の途中で車にやられてしまった猫に会ったから。

横たわる猫の前に、若いカップルがたたずんでいた。

おそらく、どこかしかるべき処置をしてくれるところに連絡したのだろう。そして、それまでの間放置して何度も車に轢かれたりしないようそこに立ってくれているのだろう。なんとなくそんな気がした。

「しかるべき処置をしてくれるところ」がどこなのかは、この際問わない。もう夜だったし、いずれにしてもそこに放置しておくよりはましだから。

もしその人たちがいなかったらおそらく自分たちが同じことをしているだろうから。

それは、猫を飼うことはできないけど、路地や公園で猫を見かけてはささやかな喜びを感じながら生きている人間の、せめてもの役割だと思うから。



そのときに、どこか不思議な経路をたどった涙(みたいなもの)が、その夢になったのだろうと。
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