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本を読まない人間、あるいは「本」の呪縛からの解放 [Thoughts]

世の中には二種類の人間がいる。
本を読む人間と、本を読まない人間だ。



ぼくは、後者だった。



祖父が英米文学、大叔父が海外ミステリーの翻訳家という家で育ったせいで、実家には本がたくさんあった。離れにあった納戸は、本の重みで文字通り傾いていた。

そこら中に貴重な本がごろごろしていたのだと思う。

「思う」というのは、実家に住んでいた頃にそれらを手に取ったことはほとんどなかったから。そして結婚して実家を離れた後、それらの本の大半は処分されてしまったから(古書店のおじさんがほくほくしながら取りに来たって)。

もったいないことをしたな。でも、人生ってそういうものなんだ、たぶん。



「本を読め」というのが父の口癖だった。

世の中には二種類の人間がいる。本を読む人間と、本を読まない人間だ。父が前者に優位性を認めていることは明らかだった。

当然の結果として、ぼくは本を読まない子どもになった。

高校生の頃、「お前はとうとう本を読まない人間になってしまったな」と言われたことをよく覚えている。



正確にいうと、ぼくは活字を読まなかったわけではない。活字を読んでいた量はおそらく周囲の大人たちに劣らなかっただろうと思う。父が本として認識するものを読まなかったということ。

太宰とドストエフスキーを愛し、若い頃は自らもロシア文学研究者を志した(らしい)父が「本」として認識するのは、いわゆる「文学作品」だった。

そういうものは(頼まなくても)いくらでも買ってもらえたし、祖父が訳した本を興味にかられてめくってみたことだってある。

でも、そういう文学的な文学作品をどうしてもうまく読むことができなかった。言葉が自分の生理の中に勝手に進入してくる異物のようにしか感じられなくて。

がまんして読んでいれば面白くなると言われてがまんして読んでいると、乗り物酔いみたいな吐き気とめまいに襲われた(一回本当に倒れたことがある)。

だからあきらめた。父の言うとおり、自分は「本を読まない人間」なのだと思った。



自分も父や他の家族たちと同じくらい「読む」ことを切実に必要としていることに気づいたのは、大学生になってから。

とうてい文学的とはいえない実用書を何十回でも(ひょっとすると何百回でも)繰り返し読んでいることを、その中にある「情報」をとっくの昔に暗記してしまった後でも、気に入った本は何回でも読み返すことができることを自覚してからだった。

実用書には父の言うような「本」のように、勝手に自分の生理の中に進入してきたりしないという安心感があったのだと思う。

お気に入りの実用書には確かに共通点があった。

それは読者をドライブしてくれる心地よいリズムとメロディのうねりがあること。どんな実用書にもそれがあるわけではない。一冊あげるとすれば、梅棹忠夫「知的生産の技術」。

実はそれがテクストの快楽を味わう行為そのものなのだと気づいたとき、ぼくは「本」と和解できたのだと思う。あるいは本の呪縛から解放されたというか。

「本」たちが悪いのではなく、ましてそれを読めない自分が悪いのでもなく、たまたまそのときの自分の生理が、「本」たちからテクストの快楽を得られなかっただけなのだと。

父の思うような文学のテクストに、自分の生理的なリズムをシンクロできなかっただけなのだと。



生理的な抵抗がなく、ドライブする言葉のリズムとメロディに純粋にひたれる、実用書でない「本」に出会ったのは大学一年のときだった。

それが、授業と授業の間の暇つぶしのつもりで買った「羊をめぐる冒険」だった。
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確実性と不確実性のはざまで考えたこと [Diary]

一昨年に引き続き、Tomo.さん(妻)の体調不良により仕事を休んでいる。

といっても、一昨年と違うのは原因がわかっていること。

しばらく中止していたヘビーな治療を復活したから。ヘビーな治療はなにしろヘビーなので、当然体への負担も大きい。そのせいだ。

だから一昨年よりはずっと気持ちは楽だけど、もちろん本人は大変だ。そして本人が大変ということは、家族だって大変だ。

だけどこれは、良くなるための過程で超えなければならない壁のようなもの。もっとずっとひどい状況を何回も超えてきたし、何よりも既に明らかに良くなってきている部分もある。



といってもこの年度末に、ただでさえ人手が足りない中で、完全に休んでしまうことは(それも突然に)さすがにできず、原則として週に2日休み、3日出社することにした。

でももちろん、そんなに都合よく思い通りにことが運ぶはずがない。シゴトの都合にカラダが合わせてくれるなんていうことはない。出社することにした曜日に体調が最悪ということもある。

よくタイミング悪く体調を崩した人に対して「プロとして自己管理が」というようなことが言われる。それは一面の真実ではあるけれど、一歩間違えば極めて傲慢な物言いになることだけは忘れないようにしよう。



今いる場所を言葉にするとすれば「確実性と不確実性のはざま」というのがいちばん近いかもしれない。

シゴトは、当たり前だけど確実性の世界。逆に人のカラダと付き合うことは不確実性の世界だ。その間を行き来するというのは、当たり前だけどなかなかに難しい。

むろんそれは、子育てをしながら、あるいは家族の介護をしながらシゴトを続けている人などは、身に染みてわかっていることだと思う。

ぼく個人の例でいえば、この状況に対して職場も同僚も理解をしてくれるという、本当に恵まれたありがたい状況にある。

それでも「生きる」ということの大半は不確実なものだ。それを強引に確実なものとすることで、シゴトというものは、あるいは社会というものは成り立っているのだと痛感せずにはいられない。



という状況の中で、洗濯機が壊れた(ふんだり蹴ったりというやつだけど、よくあること)。洗濯の途中、洗濯物がたっぷりと水を吸ったところで動かなくなった。それが今週の月曜日のこと。

メーカーに修理依頼の電話をしようとしても、当然のごとくフリーダイヤルは「ただいま大変混み合っていて」繋がらない。

三時間試みたところで諦めて購入した販売店に電話し、販売店経由でメーカーに連絡してもらい、メーカーの担当者から連絡をもらうという手順でなんとか修理の依頼はできた(そこまでで火曜の夕方までかかった)。

そしてもらった回答は、「修理にうかがえるのは最短で金曜日」というもの。

あり得ない。今の状況で金曜まで洗濯できないというのは、どう考えても選択肢にない。

とりあえずたっぷり水を吸った大量の洗濯物をコインランドリーまで持っていこうとしたけど、あまりにも重く、何よりも洗い上がりと乾燥をコインランドリーで待ってる時間がない。しかも翌日も翌々日もそれをしなければならない……無理だ。そもそも水曜、木曜は出社だし。

仕方なく新しい洗濯機を買うことにする。修理すればまだ使えると思うけど、もったいと思うけど、お金かかると思うけど、仕方がない。

いちばん近い量販店に確認したら、納品は最短で翌々日。つまり木曜日。その日は出社の予定だから、これもダメ。

いろいろ探したあげく、ヨドバシ.comが家電製品の即日配達をやっていることがわかり、そこで購入することにした。

火曜日の深夜にオンラインで購入し、予定どおり水曜の夕方に配達に来て(結局水曜は追加で休むことにした)、10分で設置・リサイクル引き取りまで完了。夜にはたまった洗濯物の洗濯&乾燥まで無事に完了した。

ヨドバシさん、本当に本当に涙が出るほどありがたかった。木曜はさすがに休めなかったので、もし木曜まで配達できないと言われたらアウトだった。



だけどここでふと考える。

ぼくが涙が出るほどありがたかったもの。それはスピード、そして確実性だ。

確実性と不確実性のはざまで、不確実な人生をカバーするために、ぼくはサービスを買った。顧客として、ぼくはそこに確実性を強く期待したし、一切の不確実性を認めなかった。

実際、修理を依頼したときの、いつ繋がるのかわからない電話、いつ来るのかわからない修理という不確実性にぼくは苛立ち、メーカーの対応を非難した。短時間で確実に新しい洗濯機を届けてくれるヨドバシ.comのサービスを賞賛した。

でも、その背後にいるメーカーの、そしてヨドバシの人々の人生だって、ぼくのと同じくらい不確実だろう。迅速で確実なサービスの裏側で、無数の誰かが確実性と不確実性のはざまにいるはずだ。

だからどうということはない。結論は特にない(今このことについて何かの結論を出す余裕はない)。これからもぼくは素晴らしい日本の確実なサービスを評価し、利用するだろう。確実であることは、素晴らしいことだ。

でも、そこには確かに忘れてはいけない何か、見逃してはいけない何かがある。



そんなことを思い返しつつ、電車の中でいろんなことを考える。

確実性と不確実性のはざまにいて「タスク管理」しようとすることの意味について。

持続可能なシゴトのあり方ということについて。

「欲望」を生活の中に組み込むことについて。

こんな歳になっても、人生のごくごく基本的なことさえ、ぼくは理解も納得もできていない。



※今日は休みの日だったけど、Tomo.さんの体調が良かったので病院の帰りに外でごはんも食べられたし、久しぶりに少し息抜きできたよ※
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回避した決断の重み、クリアであること [Thoughts]



生きるということは大小の決断の連続です。



決断というのは、そのときどきでしないと意味をなさないものです。



だから決断するべきときに決断をするということは、生きていく上でとても重要なことです。



するべき決断を回避してしまった経験は、繰り返すたび蓄積していきます。



文字通り物理的に。



捨てるべきときに捨てなかったモノ。
気になっているけど見て見ぬふりをした身体のこと。
向き合うべきときに向き合わなかったあの人との関係。
よくないとわかっているのに惰性で続けている習慣。
直視するべきときに直視しなかったあの問題。
心の中で望んでいるけど目をそらせてきたあのこと。



回避した決断の重みが、やがて人の動きを鈍らせることになります。



歳を重ねるにつれてよどみ、停滞し、身動きが取れなくなる人と、そうではない人の差はきっとそんなところにも。



クリアでありたい、と強く思います。
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