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レオ・バボータ「自分についてのネガティブ思考から解放されたなら」 [レオ・バボータ関連]

レオ・バボータ「自分についてのネガティブ思考から解放されたなら」を公開。「What if You Didn’t Have to Worry About Yourself?」の日本語訳です。
職場で同僚たちに苛々させられたことはないだろうか。家族のちょっとしたクセが気になったことは? 店員やウェイターや道行くドライバーに腹を立てたことは? 子どもや配偶者に対してはどうだろう?

これだけ苛立ちや不満のもとがある中で、もっと寛大に、穏やかでいるにはどうしたらいいのだろうか。

私にとっての答えは、意識できるかぎり、自分自身の中から抜け出すということだ。

生きている時間のほとんど全て(私にとっては2000万秒以上に相当する)が、自分についてのネガティブな思考に費やされている。私たちの心は懸念や不安でいっぱいだ。私がしていることは正しいのだろうか。これを台無しにしてしまうのではないか。期限に間に合うだろうか。人からどう思われているのだろう。うまくやれているだろうか。なぜこんなことが起こるのだろう。どうしたらもっとうまくやれるだろう。なぜ人は話を聞いてくれないのだろう。なぜ私はこんなふうに扱われるのだろう。なぜみんな邪魔をするのだろう。なぜこんなに太っているのだろう。なぜ思いどおりにならないのだろう。私は間違っているのだろうか。

では、この種のネガティブ思考から解放されたとしたらどうなるだろう。
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リズムとメロディしかない文章 [Writing]

でもね、
それはつまりそういうことで、
どうせそういうことなら
さいごには
こういうことになる。

あなたはいつも
どういうことと
いうけれど、
そもそものはじめから
こういうことなんだよ。

なのに
わたしが
ずっとああしてきた
ということは、
わたしも
こういうことだということだ。

あのことも
このことも
そのことも
ぜんぶ。

だからもう
ここまでにしよう。

わたしのあなたへ。
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コンプレックス補助線、エロ補助線、そして壮大な補助線としてのフロー状態 [アウトライナー]

以前にも紹介したことがあるけど、個人的オールタイム愛読書のひとつ、木村泉「ワープロ作文技術」(岩波新書)

今となってはふるーい本だけど(1993年だぜ)、コンピューターを使って文章を書く作業(つまり、現代のほとんどの文章を書く作業)について、今読んでも示唆に富んでいる名著です。

中でも感銘を受けたのが「コンプレックス補助線」という手法。同じ部分を以前の記事でも引用したけど、この部分大好きなので改めて(木村先生の名文も堪能してね)。

>>>
 人は誰しも何ほどかのこだわりを持っている。周知の「コンプレックス」というやつである。やっかいなものだが、文章を書く上では結構役立つ。精神的エネルギーを引き出すための起爆剤として役に立つのである。
 ワープロは、どんな文章を打ち込んでも平気である。腹の立つこと、明らかに自分の偏見なのだが、どうしても口に出してみたくてたまらないことなど、そのまま打ってしまってもワープロが爆発することはない。もちろん人に見られては困るが、あとで編集して消しておくことさえ怠らなければ、物議をかもす原因になることはあり得ない。
 そこで、当たり障ることをかまわず打ち込んでしまって、そうすることによって文章書きに勢いをつける、という手がある。打つだけ打ってあとで読みなおしてみると、たいていの場合気が納まっていて不当なことは不当に見えてくる。だからそういう暴言の類は消す。実際、消したくなる。あとには筋道の通った、しかし迫力のある文章が残る。これは一つの、きわめて有効なテクニックである。
 このやり方は、幾何の証明で補助線を引く、というのとよく似ている。補助線は証明ができてしまえば用済みになる補助手段だが、うまく引けば驚くべき効果を発揮する。こだわりも最後には文章の表面から消してしまわなければならないが、上手に使えばなかなか効果的だ。
(木村泉「ワープロ作文技術」p165- p166) ※強調Tak.
<<<

文章に書いてしまうと差し障りがあるけど、それを書くことで勢いがつく。あるいは書き出すきっかけになる。なら、敢えて書いてしまえ、ということ。「補助線」の助けを借りて、本来書かれるべき部分もずるずる出てくるかもしれない。少なくとも、萎縮して筆が止まってしまうよりもその可能性はずっと高い。

文章が書かれてしまえば、「補助線」部分は用済みなので「人様にお見せする前に」消してしまう。



不思議なのは、跡形もなく消してしまったはずなのに、その気配は確かに残ること。ポジティブな「補助線」ならポジティブな気配が、ネガティブな「補助線」ならネガティブな気配がちゃんと残る。

それを逆用して、敢えて気配を残すために「補助線」を使うこともできる。

エロ話をリアルに具体的に克明にいやらしーく(擬音とか入れちゃって^^)書き出しておいて、後半の堅い部分だけを残して消してしまう。なんてことない文章なんだけど、後にはそこはかとなく*色気*が残る。個人的にこれを「エロ補助線」と呼んでいる。このブログでも何回かやりました。

この「補助線」という技法(と言っていいだろう)、無意識には誰でもやってるのではないかと思うんだけど、意識的に利用できるようになったのは、やはりコンピューターを使えるようになってからのことだと思う。

特にうまく書き出せないとき、気分が乗らないとき、非常に効果的なのでやってみてください。



書くことに没頭していると、あちこち連想が飛び回って収拾がつかなくなることがよくある。通常それは、文章がうまく書けなくなる典型的なパターンだ。

だけど、次々に連想が浮かび、途切れることなく書き続けられる状態とは、つまり気持ちが乗っている、頭が活性化している、フロー状態に入っている、ということでもある。

こういうときに書いたものには、小手先でまとめようとした文章にはない何かがあることが多い。熱気がスクリーンなり紙なりに投射されているのだ。だから、無理に枠にはめてフローをせき止めない方がいい。

むしろコンピューターを使ったライティングでは、この状態を大がかりな「補助線」と考えて、積極的に利用してしまった方がいい。

コンピューターがあるなら、あちこち拡散したピースを寄せ集め、本来書かれるべきテーマに収束させていくことが容易にできる。そのためにいちばん役立つツールは、もちろんアウトライナーだ。

「補助線」である以上、最終的なテーマから外れた部分は、容赦なく、断固として、切り落とす。切り落としても、フロー状態のとき投射されたエネルギー、熱気はちゃんと残っている。それは、はじめからテーマに沿って、お行儀良く枠にはめようとしたなら、失われてしまったはずのものだ。



意識的にフロー状態を作って連想を広げ、後からフォーカスを絞って収束させていくアウトライナーの使い方の一例を、以下の記事で紹介しています。
http://www012.upp.so-net.ne.jp/renjitalk/outliners/case3.html
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先頭の風景、柔らかいくさび、物悲しい新たな序列 [Thoughts]

少し前に読んで、印象に残っていた記事。
「順列が人生に与える影響について」(るうマニアSIDE-B)

日本の学校では、何かを順番に行う必要があるとき、たいていは名字のあいうえお順になる。持って生まれた名前によって順番が固定されてしまう。

特に何でも最初になってしまう「あ行」の人たちは「あ行の苦行」を味わうことになる。当然何をするのも最後になってしまう「わ行の苦行」だって存在するだろう。つまり、たかが名前によって見えている風景がずいぶん異なってくる、という話。

この記事を読んだとき、最初はあまりピンと来なかった。学校で名前順で順列を決める場面がどんなふうだったか、不思議なほど覚えていない。

よく考えてみたら名字が「た行」のぼくは、前からも後ろからも常に真ん中あたりになっていたわけで、だからこそ順番を意識することもなかった(=印象に残っていない)わけだ。



逆に印象に残っている風景は、校庭や体育館で整列するときのもの。体育の授業とか運動会とか朝礼とか。そういう場面での並び順は「身長順」だった(今はどうなのか知らない)。そこでぼくが覚えているのは、常に「先頭」の風景だ。

もちろん「小さかったから」。中学に入学した時点の身長は132cmだった。

「前へならえ」のときは腰に手を当てる、好きな子が貧血で倒れたことに気がつかない、先生に常ににらまれ続ける、先頭。

名前順での「真ん中あたりの風景」は印象になく、身長順による「先頭の風景」だけが頭に残っている。そう考えると確かに、自分の意思とは無関係に規定される順列は、人生に些細だけど確実に影響を与えている気がする。

柔らかいくさびくらいには。

ちなみに、中学2年になる頃から急激に背が伸びて、卒業時には160cmを超えていた。決して大きくはないけど、もう先頭ではなくなった。それ以降「先頭の風景」は記憶に残っていない。現在の身長は168cmです。



今日は天気がよかったので、通りがかった河川敷のグラウンドでリトルリーグの試合を眺めていた(リトルリーグであっても草野球であっても、それぞれのレベルにおいて野球というものはどうしてこんなに楽しいのかしら)。

小学校高学年くらいのチーム。一方のチームの中に特別に小さい子がいた。「年齢が小さい子」ではなく「体格が小さい子」。彼がバットを振り、走る姿に引きつけられる。

おそらく運動能力は高いのだろう。バッティングフォームはなかなかのものだったし、相手に向かっていく気持ちだって持っているのだけど(少なくともその前の打席で一度もバットを振らず見逃し三球三振だった子に比べれば)、いかんせん体格に対してバットが重すぎるようで、明らかな振り遅れの空振り三つ。

そう、このくらいの年齢だと同じ学年でも、ひとりひとりかなり体格が違う。けっこう、いかんせん、圧倒的に(よく知ってる)。

男の子の社会(とあえて呼ぶ)はこの頃から既に「強さ」に基づく厳然とした序列社会だ。公式にはどうあれ。体格の小さい側の視点からいえば、それはなかなかに悔しいものだ。

誰がいちばん強いか。誰がいちばん速いか。口には出さなくてもみんな知っている。そんな力学の中で闘うことになる。力を持つものはそれを行使し、持たないものはそれなりに。

努力し、
工夫し、
取り入り、
立ち回り、
隠れ、
工夫し、
努力し、
成績に光明を、
キャラに光明を、
または苦い諦め。



でも、そんな力(=体格・体力・運動能力)の序列は、少し時間が経ってみれば絶対的なものではなかったことが明らかになる。そしてかつての子どもたちは、昔とは違う、もう少し複雑な序列の存在を知ることになる。

新しい序列は、かつての序列とは必ずしも一致しない。ときに物悲しいくらいに。

ある者は新しい序列で上位に座り、かつて上位にいて今は下位にいる者を見返したと思うかもしれない。ある者は、序列などというものとは無関係に生きていけることに気づくかもしれない。



人生はオープンエンド。
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人が変わっていく悲しさを荷物ではなく燃料にする [Thoughts]

ここのところ心の中に引っかかってる感覚があって、その感覚には覚えがあるんだけど、何だったろうと考えていた。

この感じは最近どこかで(文章として)目にしたことがある。そう思ってあれこれ考えていたんだけど、よく考えたら少し前に自分で訳したデイブ・ワイナーの文章だった。

デイブ・ワイナー「変わっていく人を引き留めるのは止すことにしよう」

たとえば、
長いこと無条件の信頼を置いていた人が、変わっていく。
知っていたその人とは違う人になっていく。
思っていたその人のようには振る舞わなくなっていく。

そんなことはいくらでもある(あるよね?)。

人は変わっていく。それはまったく悪いことではない。まして自分が知っていたつもりのその人など、自分が頭の中で作り上げた幻想にすぎない。

それでも、ちょっとだけ悲しい感じがしてしまうことも事実だ。その感覚について、ワイナーはとても簡潔な処方箋を提示する。

>>
その人がその人自身であることは自由だし、変わっていくことも自由だ。だからこれまでその人のことが好きだったのなら、これからも好きでいることだ。
<<

そういうこと。

人が変わることは悪ではない。それをちょっとだけ悲しく思うことだって悪ではない。そのことに抗うでもなく、嘆くのでもなく、ただ受け止めて先に進むことができれば、その悲しさは荷物ではなく燃料になる。

ああ、それから「変わらないとは変わり続けること」だということも忘れないようにしよう。ね。
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Love and Hell [Talks]

(あなた)のことを想像はできても理解はできない。

(あなた)の中には(わたし)に見えない地獄がある。(わたし)の中に(あなた)に見えない地獄があるように。

(あなた)の地獄の存在を知り、理解したいと願い、全力で想像することをたぶん愛という。

でも(あなた)のことを想像はできても理解はできない。

愛することが苦しいのは、いかに想像したところでそれが本質的に不可能なことだからだ。

それでも(わたし)は(あなた)のことを全力で想像するしかない。ロジックだけではなく五感の全てを使って。
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