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焼き海苔の力 [Talks]

今日はもうだめ、ご飯つくれない。お弁当買うか…。

ああ、でも家に帰ればこの間買ったおいしい焼き海苔があるんだよね。
……。
がんばってご飯だけでも炊くか。

お米研ぐ。
(じゃこじゃこじゃこ)

ごはん炊けるの待ってる間に味噌汁だけでもつくるか。冷凍しておいた油揚げと長ねぎなら切るの楽だよね。あ、ワカメも戻して入れよう。

(ぐつぐつぐつ)

お味噌入れる。

(ときときとき)

おなかすいたなあ。まだ炊けないなあ。
包丁とまな板も出しちゃったし、ついでにトマトも切るか。

(とすとすとす)

塩とオリーブオイルとお酢を混ぜて。

(ちゃくちゃくちゃく)

あ、豚肩ロース薄切り消費期限今日までだ。冷凍しないと。

いや待て。
ごはん炊けるまでにあと7分ある。7分あれば、長ねぎといっしょに塩と胡椒だけでシンプルに炒めて。最後にごま油ちょっと。

(じゃーっ)
(ぴっ)

おー、ごはん炊けた。

▼▼▼

あれ、ごはんできてる。

Told by Tomo.

(エロチック) [Thoughts]

その人の普段見ることのできない部分を意識したり、想像したり、それを垣間見たときのギャップに心奪われたりすることがエロチックであるとするならば、その人はどんな文章を書くのだろうと想像したり、文章を読んで書斎や画面やノートや机上の様子を思い浮かべたり、その源となった経験に思いを馳せたり、こんなことを書くのかと驚いたりすることもまた、同じようにエロチックなのです。

レオ・バボータ「結果的には大丈夫」 [レオ・バボータ関連]

レオ・バボータ「結果的には大丈夫」を公開。「You"ll Be OK」の日本語訳です。
あなたは道を歩いている。約束の時間に間に合うか心配だ。

遅れたらどう思われるだろうかと不安になる。何人かの人を追い抜き、今の人にどう思われただろうかという思いが頭をよぎる。自分でも意識しないうちに。

気がかりな仕事もいくつかある。私生活のもろもろ(税金、雑用、請求書)も。もっと多くのことを、もっと違うことをやらなければならないという感覚が常にある。

自分の見た目、どんな人間だと思われているか、うまくやっていけそうか、失敗しないか、どこまでやればいいか、持っていない何かについて、見逃している何かについて、人と比べて自分はどうかということについて、あなたは気にしている。

大丈夫、あなただけではない。みんな同じようなことを気にしているのだ。 全文を読む

誰のためでもないものが、結果的に誰かの何かに触れる [Thoughts]



give(役に立たねば)でもtake(利益を得ねば)でもなくときにはwant(ただ書きたい)を優先するということはとても大切だという気がする。おそらく「大切」の意味は人によって違うのだろうけど。

目的もなく言葉のピースを吐き出しては組み立てる作業をしていると、自分の中のずっと光が当たってなかった何かに行き当たることがある。

それは個人的にとても意味のあることだし、気がつけばけっこう長い間ブログを書き続けてきた最大の理由も、たぶんそこにある。でもなぜそれをわざわざ公共の(?)場所で行う必要があるのかというのが引っかかっていたのも事実。

その種のフリーライティングは昔からやっていたことだから(人生にけっこう大きな影響を及ぼす結果につながったことも一度や二度ではない)、それだけが理由にはならない。

答えは、冒頭で引用したツイートにある「独りよがりは良くないけれど」という言葉の中にあるのではないか、と思う。

独りよがりにならないために、人に読んでもらえるように、脈絡のないピースを、人に見せられる状態にしようと努力すということ。

伝えたいことが伝わるようにロジックと形式を。
読むのが苦痛にならないようにリズムとメロディを。

うまくいくかどうかは別にして、そのために努力する。その過程で、思いもかけない形でピースがはまる。結果的に、放っておけば思いつかないようなことを書いてしまう。そして、後から読み返すとそれは確かに自分の中に存在しながら光が当たっていなかった、重要な何かだったり。

そんな経験を繰り返しているうちに、自分の中に閉じて固まったもの、奥底に潜んでいたものが溶け出してくるような気がすることがある(もっと生々しい表現を使ってもいいけど、やめておく)。

それは、極めて個人的な経験であると同時に、人に読んでもらう前提の努力なしでは起こりえないことだ。少なくとも自分はそう感じる。

もちろん、その「何か」に意味を見出すのは自分だけだ(また、そうでなくちゃいけない)。

でもときどき、そんな記事についてコメントやアンサー記事をいただくことがある。極めて個人的なものであるはずの「何か」が、読んでくれた別の誰かの極めて個人的な「何か」に触れた、ように感じる。

何かをgive(与える)するなんておこがましいけれど、そんなふうに「極めて個人的に」何かが伝わり、何かが返ってくる。

誰のためでもないものが、結果的に誰かの何かに触れる。
なんというか、それはもうほんとうに素敵なことです。
そしてもちろんその逆も。

幻想の連れ込み [Diary]

久しぶりに実家に帰ったら、道路を挟んで筋向かいにあった「駿河旅館(仮名)」がなくなっていて、跡地には3軒の建売住宅が建っていた。狭い敷地ぎりぎりに押し込められた感じの、それでも精一杯明るく陽が当たる(南欧風チックな)感じにつくられた家。そこに住む若い夫婦。ちょっと不思議な感じ。

「駿河旅館(仮名)」は馴染みのビジネス客を相手にする小さな旅館だったけど、かつては「連れ込み」だったそうだ。

一応解説しておくと、「連れ込み(連れ込み旅館、連れ込み宿)」とは今でいうラブホテルの原型で、ウィキペディアによれば「第2次世界大戦後には焼け跡での青姦を避けるため」に登場した、そうです。

子どもの頃、実家の周囲には何軒か同じような由来の旅館があった。だいたいは「○○旅館」「旅莊○○」というような名前で、常連客相手にほそぼそと営業している。

今でこそ住宅が建ち並んでいるけれど、昭和40年代の前半くらいまで、このあたりは竹藪と雑木林が残る、暗く人通りの少ない場所だった。それでいて駅前の繁華街から歩いて5分だから、まあ「連れ込み」には絶好の立地ですよね。

もっともぼくが物心つく頃にはみんな普通の旅館に鞍替えしていたし、例の「駿河旅館(仮名)」以外はやがて廃業してしまったから(「雑木林ごと整地されて大きなマンションが建った)、実際に「連れ込み」として営業している様子を目にしたことはない。

でも、大人たちの思い出話を横で聞いて育ったせいで(「よくアベックが間違えてうちの玄関に入ってきてさ——笑」)、頭には想像上の「連れ込み」のイメージが焼き付いてしまっていた。

夜ごと、暗い竹藪と雑木林の中に転々と旅館の灯りがともる。その中を一組また一組、カップルが腕を絡ませ、あるいは不自然に3メートルくらいの距離を保ったままひっそりとやってきては、灯りのどれかに吸い込まれていく。

そのイメージがぼくは嫌いではなかった。

夏の夜。
空には
青白い月。
虫の声。

幻想的で官能的。

高校生の頃、なかなか思うように距離が縮まらない彼女とワルイコト(イイコト)するチャンスを捉えるのにすごく苦労しながら、妄想の中で彼女を「連れ込む」場所はなぜか雑木林の中に光るあの「連れ込み」だった。

ぼくの中の「連れ込み」は、その即物的な呼び名と裏腹に、幻想的で官能的で密やかで、それでいてアットホームで暖かみかあって守られた、素敵な場所だった。

結局その彼女とワルイコト(イイコト)はできなかったけどさ。

「駿河旅館(仮名)」跡地の陽の当たる建売住宅に住む若い夫婦の様子を眺めながら、そんなことを思い出すなど。

(きゃっ☆)

編集の毒 [Thoughts]

良い訳文て、「だってこうにしかなりようがないじゃん」と言われるようなもの、なんじゃないかと思っている。

さんざんこねくり回してジタバタしたあげく、できあがったものを人に見せて「だってこういうふうにしかなりようがないじゃん」と言われたら、それが理想(なかなかそんなことできないけど)。

それって、何かに似てる気がすると思ってずっと気になっていたのだけど。



思い出したのは、もう10年以上も前に、地方のがんばってる中小企業の社長さんにインタビューしてレポートにまとめるという仕事をしたときのこと。

話をうかがった社長さんのひとりに草稿を送って「内容に問題がないか確認してください」と言ったら、「だって自分がしゃべったまま書いてあるんだから問題も何もないよ」と笑いながら言われた。

そのときの自分にとって、これは最大級の誉め言葉だった。

なぜならその社長さんのレポートは、あちこち飛び回る(正直言って支離滅裂な)3時間分のインタビューメモを書き起こした後で、それをさんざん編集して組み立てたものだったから。

整理して組み替えて、筋が通らないところを前後の流れから推測して補い、リズムと流れを整える。

本人にとってその文章が「自分が話したまま」に見えたということは、その編集が成功したということだよね。

と、わりに最近まで思っていた。



今読んでも、そのレポートには確かに真実が書かれているように見える。

福井市内から車で山あいに40分近く入ったところにある、その小さな建設会社の若い社長さんは、一字一句そこに書いてある通り話をしたように思える。そのときの表情まではっきりと目に浮かぶ。

でも、ぼくは言葉足らずな社長さんの話をアウトライナーに取り込み、流れとリズムとメロディを整えながら、相当な量の言葉を補ったはず。

その補われた(ぼくの)言葉はどこに溶けてしまったんだろう。そして、社長さん本人が本当にそれを一字一句自分が話したことだと思ったのだとしたら。



文章に編集(エディット)は不可欠だけど、すんなり入ってくる、心地よく、気持ち良く、整えられた文章には毒がある(たいていの心地よく気持ちよい外部刺激がそうであるように)。

編集という行為の中に潜む毒を忘れないようにしよう、と思う。特に他人の言葉に対しては。

レオ・バボータ「決めつけない」 [レオ・バボータ関連]

レオ・バボータ「決めつけない」を公開しました。「Letting Go of Judging People」の日本語訳です。
これまで身につけてきた物ごとの中で、私をいちばん幸福に近づけてくれたもののひとつ。それは人について何かを決めつけるのは危険だと知ったことだ。

私は決して人のことを決めつけたりしないなどと言うつもりはない——決めつけるというのは人類に先天的に備わった機能か、もしくは先天的に備わった機能の結果として身についたものだと私は考えている。誰もが人を決めつける。私も例外ではない。

それでも自分が人を決めつけているのだということを、以前よりは意識できるようになった。そしてそれが悪い兆候であると認識できるようにもなった。

決めつけること自体が悪なわけではない。ただそれは有害な何かの兆候なのだ。ここで「悪い」というかわりに「有害」という言葉を使ったのは、決めつけることなくその害を観察したいと思うからだ。

私が人を決めつけようとするとき、その裏に潜んでいる有害な原因/状況をいくつかあげてみよう。
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