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生活を豊かにし、人を幸福にするタスク管理 [アウトライナー]

ライフログにはあまり興味がないけれど(向き不向きがあるだろうけど、自分がやるとせっかく旅行に行って写真を撮った記憶しかない人みたいになりそうだ)、泡のように浮かんでくるいろんな「思いつき」を時系列に記録していくことには、確かに意味があると思う。

朝の通勤電車の中なんか実にいろんなことを思いつくので、片端から書きとめていく。ブログのネタとか仕事で今日やらなきゃならないこととかもあるけれど、個人的にいちばん価値があると思うのは、折に触れて浮かんでくる「欲望」の切れ端だ。

人には見せられない、文字通りのナマの欲望。そこには自分が(本当は)どこに向かいたいのか、(本当は)何をしたいのかということのヒントがたくさん含まれている。

もちろん欲望だから荒唐無稽であり、エロティックであり、エゴイスティックであり、子どもっぽい。そして大人であるぼくたちは、ついつい自制して、それらを闇に葬ってしまいがちだ。

でも、個人の健全な欲望を、人や社会との関係の中で意味あるものとして提示し、相互作用することが「生活=生きる活動」なのだ(とぼくは思っている)。そして、健全な欲望の中には、意外なほど美しいものもある、ということも知っている。

だからタスク管理というとき、日々降りかかってくるタスクをさばくためのツールではなく、浮かんでくる欲望をブレイクダウンし、翻訳し、パラフレーズし、意味あるもの・価値あるものとして磨き上げ、現実の行動に落としていくツールと手法がほしい、と思う。

それこそが生活を豊かにし、人を幸福にするタスク管理なんじゃないかと。

それは人によってまったく違った形になるはずだから、欲しいのは固定されたタスク管理ツールではなく、ユーザー次第で様々に応用できる汎用的で柔軟な基本機能を提供してくれるツールだ。たとえばアウトライナーであり、マンダラートであり、Evernote。

その上に、自分の欲望と「生活=生きる活動」の橋渡しをしてくれるツールをひとりひとりが組み立てられるような。

先週の記事で紹介したWorkFlowy上のアウトラインは、原始的だけどそういう意図で作られている(今はもう少し洗練されつつある)。



秋の夜長はアウトラインづくり。

あらゆる寝坊の中で最高の寝坊 [Diary]

猫を飼っていた頃、猫がいると冬でも湯たんぽなんかいらないでしょう、いいなあとうらやましがられたことがよくあったのだけど、これは大きな勘違いだ。

猫はお布団をあたためてくれたりなんかしない。既に温まったお布団に入るのだ。



たとえお布団がいい具合にあたたまっていたとしても、猫が都合のいいタイミングで入ってくることなど期待してはいけない。

夜、どれだけお布団に誘っても入ってこなかった猫が、朝そろそろ起きようかと思っているときに限って入ってくる。

温かいお布団の誘惑にようやく打ち勝って、今から起き出して顔を洗って朝食を食べて仕事なり学校なりに出かけようという、まさにその瞬間に猫は入ってくる。そして目を細めて喉をごろごろ鳴らしはじめる。



朝のお布団が最高なのだということを猫はちゃんと知っているのだ(猫の目をごまかすことはできない)。



秋が深まる頃に思い出すのは、まあ猫が入ってきちゃったんだから仕方ないかと心から納得してそのまま二度寝するのが、あらゆる寝坊の中で最高の寝坊であるということ。

思考の流れを阻害しないタスク管理の道具 [アウトライナー]

昔から、アウトライナーの典型的な用途のひとつはタスク管理だ。



タスク管理アプリではなくアウトライナーを使う最大のメリットは、自分の目的に合ったタスク管理のフレームワークを自由に組み立て、必要に応じて変更できることだ。それも、実に簡単に(ただアウトラインを作るだけだ)。

タスク管理アプリでは、そのアプリが提供する枠組みに否応なしに従うことになる。でも、既製品の枠組みが自分の頭の動きにうまく合致するとは限らない。逆に枠組みに縛られて頭が働かなくなってしまうこともある。

自分が何をやりたいか、今何をするべきか、そのためのアクションは何か、それはまさに「考えること」だ。どれだけ機能が充実していても、考えられなくなってしまっては意味がない。書き出すときはただ書き出したいし、考えるときはただ考えたい。

もうひとつ。タスクやプロジェクトを真剣に考えようとすると、それ以外のことを書くスペースが欲しくなってくる。「ブログ更新」というタスクがあるなら、そこにそのまま記事を書いてしまいたい。「Aさんとお金の交渉をする」というタスクがあるなら、どんなふうに交渉するのかまでその中で考えたい。

頭の中では、タスクはタスクだけでは完結しない。夢想や物思いから行動まで全てがつながっている。



アウトライナーを使うと、タスクの繰り返し設定や日付設定などは(マクロなどを組まない限り)できない代わりに、圧倒的な柔軟性が手に入る。

たとえば少し前に紹介WorkFlowyのTwitterアカウントで紹介されていたこの記事。
How to Use Workflowy to Get Sh*t Done And keep track of your life.

WorkFlowy上の単なるひな形アウトラインなんだけど、とてもシンプルで実用的、かつ強力だ。WorkFlowyのアウトライン上で動作する一種のアプリケーションと言ってもいいものになっている(アウトライナーというのは一種の「思考のOS」なのだ)。

個人のタスク管理に関わる思考の流れをそのまま組み込んでいるので、流れが阻害されることはない。もちろんブログの記事を書くことも、交渉ごとのシミュレーションも、報告書の下書きも、シームレスにやってしまえる。

思考の流れを阻害しない文章書きのためのツールは、思考の流れを阻害しないタスク管理のツールにもなる。

そして個人の思考の流れを組み込むということは、人によってその構造は違ったものになる、ということ。



ちなみにこれは、今個人的に使っているアウトライン。内容は以前マンダラート上で使っていたものをベースにしているけど、上の記事の要素も取り入れさせてもらった。こちらについてはまた別の機会に。
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クリア [Diary]

仕事帰りに頼まれていた牛乳を買い忘れてしまったので、玄関に鞄を置いてあらためて牛乳を買いに最寄りのローソンへ。

Tomo.さんは申し訳なそうにしていたけど、実は他にも目的があって。

ローソンに行く途中、橋の上のちょっとした夜景スポット。臨海部の工場群と埠頭のクレーンとベイブリッジのはしっこが見える。

そこでちょっとだけ立ち止まって夜景を眺める。たいした夜景ではないけど、でも思ったとおり、嵐が通り過ぎた後の空気はとてもクリアで、遠くの光がはっとするほど近くに見える。

思ったとおり。

なぜここでこうしているかは、もちろんわかっている。誰にも説明する必要はない。言葉にする義務もない。

説明できることについて [Thoughts]

どうして質問に答える訓練ばかりしているのですか。
どうして説明できることばかりしているのですか。
どうして全てを説明しようとするのですか。
どうして説明できなければならないと思うのですか。
説明できることは物ごとの一部にすぎないということを知らないのですか。
今まで本当のことをうまく説明できたことが何回ありましたか。
説明するために削り落としたものがどれだけありますか。
うまいこと説明してしまった後の自分への哀れみとも後悔ともつかないあの感じを忘れましたか。
説明に行動を合わせてしまったことがどれだけありますか。

作文の風景、レポートの風景 [Diary]

「作文」について考えてて思い出したこと。

サンフランシスコに住んでいた頃(小学校一年生から五年生)、平日は現地の学校に通い、土曜日だけ現地の学校を間借りして開かれる日本語学校に通っていた。

日本語学校では、日本から派遣された先生が日本の教科書を使って授業をする。といっても週に一回なので、国語・算数をメインに理科・社会を少々。理科の実験や体育は割愛だったけど。

で、国語があれば当然「作文」がある。普段は日本語学校でもアメリカ製のノートを使っていたけど、「作文」のときにはちゃんとコクヨの原稿用紙が配られる。そして「なつやすみのおもいで」とか「『きかんしゃやえもん』を読んで」とかを書く。

そういう「作文」がとてもとても苦手だった。単純に何を書いていいかわからなかった。鉛筆を握ったまま硬直しているぼくに先生は「思ったことをそのまま書けばいいのよ」と言ったけど、そもそも何を思えばいいのかわからなかった。

生まれてはじめて誉められた作文は、家族で退屈なアイダホの田舎をドライブしていて、前を走るじゃがいもを満載したトラックの荷台からときどきじゃがいもが転げ落ちるのを、「正」の字を書いて数え続ける様子をひたすら描写したものだった(思ったことなんて何も書かなかった)。

今考えるとかなりシュールな内容だ。



逆に現地の公立小学校で日本でいう「作文」に該当するものを書いた記憶はない。

そのかわり、高学年になると「レポート」というのをよく書かされた。指定されたテーマで、あるいは事前に自己申告したテーマでレポートを書いて、クラスの前で発表する。

「Peanuts」の中で、チャーリー・ブラウンやペパーミント・パティが「This is my report on xxxxx」という定番のセリフとともにやらされてるやつですね。

小学生ということもあって、特に技法的なこと(文献の調べ方とかアウトラインの作り方とか)は習わなかった。ただ印象に残っているのは、「レポートするとはどういうことか」についてわりにしつこく言われたこと。

たとえば誰かが「This is my report on our neighborhood history(これは学校の近所の歴史についてのレポートです)」と言って発表したレポートが、「That’s a report on your grandpa(それはあなたのおじいさんについてのレポートね)」と却下されてしまう。

昔のことを良く知ってるおじいちゃんに話を聴いて、学校周辺の歴史についてのレポートを書いたら、そう言われちゃったわけだ。じゃあどうすればいいのか。

先生が言ったのはこういうこと。

内容は今のままでいい。ただ「He said there was a big fire in 1950(彼=おじいちゃんは、1950年に大きな火事があったと言った)」という部分を、「According to grandpa, there was a big fire in 1950(おじいちゃんによると、1950年に大きな火事があった)」に変えなさい。

たったそれだけの違いで、続きの文章も変わる。「おじいちゃんは、1950年に大きな火事があったと言った」と書いたら、続きはどうしても「あのときは大変だったとおじいちゃんは言った」とか、「おじいちゃんはそのときどうしたの?とぼくは聴いた」とかになってしまう(「おじいちゃんについてのレポート」だ)。

でも「おじいちゃんによると、1950年に大きな火事があった」と書けば、続きは自然に「何軒もの家が焼けて、長いこと空き地になっていたという」とか「火事を教訓に毎年消防訓練が行われるようになった」とかになる。つまりそれが「学校周辺の歴史についてのレポート」ということだ。



別に作文教育の優劣の話ではなく(日本的作文にも確かに意味はあるとは思う)、ただその違いがとても印象に残っているという話。