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ノートを処分すること [Diary]

年末に、もう必要なくなった仕事用のノートを大量に処分した。過去十年分。同僚の中には目を丸くしてる人もいたけど(「自分なら賞状や記念品は捨ててもそれだけは捨てない」)。

「それ貴重品ですよね、見せてください!」と言ってくれた子がいたけど、見せたら三十秒くらい固まったあと一言「すごいですね」と言われた。



自分のためのノートに書かれた文字は、他人にはまず解読不可能だ。その上ページのど真ん中にナナメに3行しか書いてなかったりする。

ぼくの中の「人に読める字」を書く能力は、申請書類の記入と年賀状くらいでしか発揮されない(それだって読みやすいとはとても言えない)。



それでもノートを見て「字がきたない」とか「もったいない」とか叱られないので、大人になるというのはとてもよいことだ。



子どもの頃「ノートの上手な使い方」というものを教えられることがよくあった。いわゆる「できる子のノートはこうなっている」みたいな。

片側を必ず開けて書くとか、色の使い分けだとか、そこで紹介される「できる子」のノートは確かにぼくのノートとは違っていた。

でもそういうノートを真似してみても(真似しろと言われた)、無理に決まった場所に決まった書き方をしようとすると、借りてきたような自分じゃないような言葉しか書けなくなる。文字まで小さくなる。そして後から見返してもまず役には立たない。

何かしら意味があったのは、場所や形のことなんか考えもせず傍若無人に書きなぐったノート。そして「写経」のように本を書き写したノートだ。



それでも、どんなにきれいにノートが書ける子よりもノートという存在自体は好きだったと思う。

特に気に入っていたのは3リング式のバインダーだけど、学校では「きちんとした」ノートじゃないとダメだと言われた。バインダーならちゃんと使えるような気がしていたんだけど。



今では自分がどんなノートを使ってどんなふうに書くか好きなように決められるので、大人になるというのはとてもよいことだ。



アウトライナーフリークではあるけれど、基本的には紙とペンからは離れられない人間なのだと思う。

バッグの中には目的のないノートが入っている。

仕事をしてるときもブログを書いてるときも翻訳をしているときも、行き詰まったときに目的のないノートにぐしゃぐしゃと何か書くことで、ブレイクスルーできることがけっこうある。

自分にとってノートとは、フィジカルに手先を動かすことで頭を動かすための道具なのだ、たぶん。

それは書いたときには確かに意味があったけど、取っておいて何か価値が増すものでもない。たぶん。

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アウトライナーの新しい呼び名 [アウトライナー]

アウトライナー、もしくはアウトライン・プロセッサーという名前は、このソフトにはあんまり相応しくないと長い間思っていました。「アウトラインを作るためのソフト」という印象が、このソフトの理解を難しくしてるような気がするからです。

「流れていくものをキャッチして仮に体系化するための道具」というのが、ぼくのアウトライナーについての認識に最も近いものです。

思考は流れていくものです。アウトライナーは、流れていく思考の中から必要なものをキャッチします。川の中に網を突っ込んで絡め取るイメージです。

それはむしろ受動的な行為です。いわゆる発想法のイメージとは少し違います。

絡めとった思考は、アウトライナーの中で必要に応じて、あるいは目的に応じて自由に組み立て、体系化し、カタチにすることができます。カタチにするとはアウトプットすることです。

でも、それで終わりではありません。アウトライナーで組み立てたカタチは、仮のものです。なぜなら思考は流れ続けているからです。

アウトプットしているそばから新しい何かが絡め取られていきます。整えたはずのカタチは、新しい素材を付け加えた瞬間バランスを崩します。そこでちょっとシェイクすればアウトラインはたちまち揺らぎ始めます。

シェイクするとは、階層を上下することです。あるいはトップダウンとボトムアップを行き来することです。バランスを取り直そうと思えばアウトラインを組み立て直すことになります。

アウトラインは常に「仮のもの」です。仮のアウトラインの、ある瞬間のスナップショットがアウトプットです。

だからこそ、自由で柔軟で速いのです。

デイブ・ワイナーはアウトライナーのことを「テキスト・オン・レイルズ」と表現しました。開発者にとってはイメージしやすい名前かもしれません。

ごく普通の人にイメージしやすいアウトライナーの呼び名を、ぼくはまだ思いつけずにいます。

※「(仮)アウトライン・プロセッシング入門」こぼれテキストより

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麻薬のような孤独と自由(だと思った) [Diary]

中学一年の頃、「遠くに行くこと」に取り憑かれた。

塾をさぼって駅前から適当なバスに乗って終点まで乗る。終点についたら、少しだけ歩き回ってまた同じバスに乗って帰ってくる。

バスの窓から見える空は夕焼け。
知らない街並み。
ちょっと駅から離れればいたるところに残っていた原っぱ。
風に揺れるススキ。

その孤独と自由な感じが忘れられず、行動はエスカレートした。地元駅のバス停から乗れるバスで満足できなくなり、電車に乗るようになった。

鶴見線に乗ってコンビナートの見える埠頭へ。
京急に乗って逗子の海岸まで。
地元の電車では満足できなくなり、
横浜線で八王子、南部線で立川、東急田園都市線でつきみ野、相鉄で海老名。

学校が終わってから夕食までの間に行って帰ってこられる範囲はほとんど制覇し、やがて日曜日のたびにどれだけ遠くに行けるか。

小田急線で江ノ島、小田原。
京王線で高尾山。
西武線で秩父。
国鉄で青梅、奥多摩。
銚子、館山、安房鴨川。

強風が吹き付ける冬の銚子駅で誰もいないホームでひとり帰りの電車を待つ時の感じ。

え、そんな資金がどこから出た?
まったくもって自慢できる話ではないので、想像してください。

でももちろん、その孤独と自由は帰る場所がある前提のものだ。

どこまでいってもぼくは恵まれた家庭に育ち、守られていた。その中での孤独と自由。自分はまだ子供にすぎないのだという、逃れようのない現実。

「帰る場所がある」ことの意味、「守られている」ということの意味。

そして、おそらく家族はその行動を(そして資金源を)分かっていながら黙認しているのだということに気づいたとき、中毒症状は突然終わった。

クラスの女の子を好きになって、生命エネルギーがそっちに向いたということもある、かもしれない。

でも、今でもあの麻薬のような孤独と自由(だと思った)の感覚は、生々しく残っている。

そして気がつくと、横浜駅のバスターミナルで、目についたいちばん魅力的な行き先のバスに乗り、終点で降りてぶらぶら散歩してみたいなあ、とか思っていたり。

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「アウトラインを操作する」ことについてのランダムノート [アウトライナー]

たとえば図書館とか事典とか法律とかいった、膨大な知識を整理して自由に引き出すための仕組みはアウトラインとして表現することができる。

たとえばタスク管理では、今日やることは今月/今年/そして人生の中に位置づけられてはじめてその意味が判明するのであって、それはアウトラインの階層を一段ずつ上がるということだ。

たとえば「物語」が異なる空間と時間のあちこちに同時に存在する視点(point of view)を線形に配置するものだとして、それはアウトラインの階層を縦横に移動するということだ。

※「#段差ラ部」でのマロ。さん(@maro_draft)、るうさん(@ruu_embo)との会話メモを見ながら

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 [Diary]

昔から繰り返し夢で見る風景がある。
真っすくな道をひとりで海に向かって歩く風景。

道の先には海がある。
時刻は夕方。
水平線にかすかに夕焼けの名残がある。
西からの強い向かい風。
潮の匂い。

たぶんぼくは子どもだ。
そして、自分がひとりであることを知っている。



大切な人と手をつないで歩くとき、
その風景を忘れずにいられるかどうか。

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