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残り時間の感覚 [Diary]


末期ガンの告知を受けたオリバー・サックスさんの言葉をレオ・バボータさんが引用している。

「突如として物ごとがくっきりと見えるようになる。重要でないことをしている時間はない」

まさに「フォーカス」だ。



inessential(重要でない)なことをしている時間なんかないのは誰だって同じだし、そのことは誰もが頭ではわかっている。でも不思議なことにふだんの生活の中でそれを実感しながら生きることはとても難しい。

考えようによってはinessential(重要でない)なことをすることがいわゆる「生活」なのだとさえ言える。それを切り落とすことは、通常かなりの勇気と気力、そして覚悟が必要になる。

そしてある日、「残り時間」が具体的な事実(そして数字)とともに明白になったとき、本来の優先度が鮮やかに劇的に意識に上る。



ふだんの生活の中で「残り時間」を意識する方法のひとつは、自分がこれまで生きてきた中で忘れられないポイントを思い出し、そこからの現在までの時間を未来に当てはめてみることだ。

たとえば成人式の日のことはよく覚えている。面倒だったけどいちおう式に出た。ゲストに田中康夫さんが来ていて、なぜか壇上で中学時代の同級生と対談した。だるいので式の途中で抜け出して彼女と落ち合ってお茶を飲んだ。

スーツを着てネクタイを締めて彼女と会うのが気恥ずかしかったのを昨日のことのように覚えているし、その日から今日までの時間を実感することができる。

それは26年前のことだ。

その時間感覚のベクトルを未来に向けて、同じだけの時間が流れたとすると、自分は何歳かということ(そしてその年齢の自分が将来存在する保証などまったくない)。

もうひとつは、自分が好ましく覚えている瞬間をあと何回経験できるか、冷静に考えてみることだ。

五月の晴れた日に、ふたりで木陰に座って上空を通過していく飛行機を数えて過ごしたことは、なんてことない人生の一日だけど、同じことが生きてる間にあと何回できるか

たぶん驚くほど少ない。



結婚したばかりの頃、いろんな事情で奥さんと離れて暮らしていたことがある。別にけんかして別居したわけではなく、自分の力ではどうにもならない事情で。

毎日会社から夜遅く真っ暗な部屋に帰ってくる。ひとり暮らしだとか単身赴任だとかなら自分の選んだことだとも思えるけれどそうではなく、そしてその状態がいつ解消するのか予想がつかないというのは、なかなかに身にこたえた。もちろん彼女の方だって大変な思いをしている。

現状を改善することもできず次に進むこともできない。文字通り身動きできない。そんな状態が一年以上も続いていた。

無力感といってしまえばとても簡単だけど、そんな明快な言葉を当てはめる気持ちにもならない。

電車の中でつり革につかまりながら何か考えなければと思うけれど、帰りは遅く朝は早く洗濯物はたまり定食屋は閉まりたまには息抜きしろよと連れて行かれたキャバクラで女の子と口論になってつまみ出されたとか。



「どうするの?」とMちゃんに聞かれても「どうしていいかわからない」としか答えようがなかった。そこは渋谷のハチ公口の近くにある喫茶店で、状況を知ったMちゃんがお茶に誘ってくれたのだった。

Mちゃんはもともと奥さんの親友だけど、何度か会っているうちにぼくはMちゃんが大好きになった。

話ができる相手はそのときMちゃんしかいなかった。少なくとも「この話」ができる相手は他にいなかった。別に愚痴をいうつもりで会ったのではなかったけど。

久しぶりに会ったMちゃんは、前年に大きな病気をして手術を受けたとは思えないほど元気で、とても忙しそうだった。手帳にはびっしりと予定が書き込まれ、携帯はひっきりなしに鳴った。

ぼくが話している間、Mちゃんは一度も電話を取らなかった。「携帯いいの?」と聞くと、Mちゃんは電源を切った。



話の途中でMちゃんはいきなりぼくの手を取った。というより「腕をつかんだ」というのが正確だ。Mちゃんはぼくの腕をつかんだ。驚くほど強い力で、驚くほど熱い手だった。しばらく腕に跡が残ったくらい。

「自分が選ばなきゃいけないんだよ」とMちゃんは言った。



Mちゃんがこの世界からいなくなってしまった後で思ったことは、そのときMちゃんはたしかに「残り時間」の感覚を持って生きていたのだということだ。

時間の有限、階層の次元 [Thoughts]

時間は短期的にも長期的にも有限だ。

短期的に有限というのは「一日の時間には限りがある」という意味で。長期的に有限というのは文字通り「人は必ず死ぬ」という意味で。

タスク管理はともすると短期的な有限のことばかり意識してしまいがちだ。いかに達成するかとか、いかに優先順位をつけるかとか。

でもアウトライン・プロセッシングが教えてくれることは、ある階層での記述の本当の意味は、より上位の階層から見ることではじめて理解できるということだ。

階層は上位から下位まで無限につながっている。そして下位の階層で起きることはなんらかの形で上位の階層に影響を与える。どこかの階層だけを切り離して考えることはできない。



手をつけにくい複雑なタスク、面倒なタスクは手をつけやすい小さなタスクに分解するといい。これは(真理だと思うけど)アウトライン的に考えると「ひとつ下位の階層に降りていく」ということだ。

これで達成はしやすくなるけれど、たぶんそれだけでは足りない。このタスクを実行することの意味は、むしろ上位の階層に上がってみなければわからないからだ。

今日はいろいろと中断が入る中で複雑で面倒なタスクを達成した。そのことを一段上位の階層、たとえば「今月」のレベルから見たら、それは「今抱えているプロジェクトが一段階進捗した」という意味を持つかもしれない。そのさらに上位、たとえば「今年」のレベルから見たらそれは「昇進に一歩近づく」という意味を持つかもしれない。そんなふうに、どこまでも階層を上がって位置づけていくことができる。

階層は理論的には無限だけど、時間は短期的に有限なだけでなく長期的にも有限だから、実際的には最上位の階層が存在する。それを「人生」という。

今日やったことの意味を最終的に規定するのは「人生」だ。今日やったことは、確実に人生全体とつながっている。

アウトライナーを操作して、末端の小さな変化がアウトライン全体に影響を与える様子を目の当たりにすると、このことをいやでも実感する。



そしてもう一度、今日いろいろと中断が入る中で達成した複雑で面倒なタスクのことを考える。さっきまで感じていたそこそこの達成感についても。

それでもやはり今日は人生の中でも価値ある複雑で面倒なタスクを達成した日かもしれない。でももしかしたら今日はひさしぶりにつくったお昼ごはんを「おいしい」と言ってもらえた日、あるいは冬の東京の夜、きりっとした冷たい空気の中を一人でどこまでも歩きたいと思った日かもしれない。



というようなことを書きながら、人生の中の今日という日が終わるよ。

アンノウン [Diary]

聡明で優しいはずの(人生の先輩)二人が、人生の多くを共に過ごした相手に対する失望と諦めに飲み込まれようとしていたり。

その日常が、些細だけれど根深い苛立ちや怒りに支配されようとしていたり。

過去の保留された決断の重みに押しつぶされようとしていたり。

長い時間の経過や老いがもたらす総合的な負の側面は、もちろん今までにもずっと存在してきたもので、ただ自分に知られていなかっただけだ(そしてきっと今も知られていない)。

そのことを思うときの、もし大人でなかったら泣くという形で現れたかもしれないある種の感情は、すでに大人になってしまった自分によって表面的には形にならないまま処理される。

まだ、時間は与えられている。



「聞きたいことは、たったひとつだけ。もう一度私は愛せるか」 (※)

フローラップ [アウトライナー]

全体の構成のことなど考えず、自由に書いた文章に見出しをつけてアウトラインへと変換していく作業は、「発想を整理分類してまとめ上げていく」という意味での〈ボトムアップ〉とは質が違う。

また、プリントアウトを読みながら文章の細部に着目しつつ手書きで細かく書き込んだ内容を反映する、その過程でアウトライン全体が変化していくことも、やっぱり通常の〈ボトムアップ〉とは違う気がする。

名前をつけることが意識することだとすれば、これらには別の名前があったほうがいいのかも、とも思う。

イメージとしては「フローラップ(フローを巻き取る)」なんだけど、これだとコンビニで売ってる甘くて冷たい何かみたいだ。