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春のアウトライナー散歩 [Diary]

春のいいところは「アウトライナー散歩」ができること。

夏は暑いし冬は寒いし秋はいつまでも蚊がいるから、アウトライナー散歩に最適なのはやっぱり春だ。

アウトライナー散歩といっても、特に難しいことは何もない。考え事をしながらぷらぷらと散歩して、公園のベンチにでも座ってアウトラインを作るだけ。

今日やらなければならないこと。
当面抱えている仕事のこと。
解決しなければならないあの問題のこと。
頭に引っかかっている懸案のこと。

場所の影響ってとても大きくて、陽の光や木の匂いや鳥の声や水の流れる音の中では、思考はいつもとは少し違うルートを流れる。いつもより少しだけポジティブに。あるいは少しだけディープに。

本当はどうしたいのか。
本当は何が欲しいのか。
本当はどっちに行きたいのか。
本当は何が重要なのか。

昔から、散歩しながら思いついたことを小さなノートに書き込んだりしていたけれど、いまは本物のアウトライナーをポケットに持ち歩くことができる。

しかも、コンビニやドトールで、安くてそこそこおいしいコーヒーをテイクアウトできるのだ。

( ˘ .˘ )~♪

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隣の芝生2017 [Diary]

以前の職場の後輩から「転職経験が豊富だから」という理由で転職に関する相談を受けた。

でもぼくは、みんなの想像しているような、いわゆる「転職」をしたことは今まで一度もない(イメージに反して)。残念ながら、具体的にアドバイスできることは何もない。



「やっぱり隣の芝生って青く見えるんですかね?」と彼は言う。



自分の経験からも、職場の上司や同僚と「離職」「転職」について会話を交わすシチュエーションがあれば、必ずと言っていいほど出てくるフレーズが「隣の芝生は青く見える」というものだ。主に、転職を止める/阻止する立場の人によって口にされる。

「隣の芝生」の話だったら、ちょっとできる。



隣の芝生というのは、確かに青く見える。これは比喩ではなく、実際の芝生の話だ。

昔も書いたことがあるけど、子どもの頃住んでいた家の前庭は芝生だった。芝生に水をやるのはぼくの仕事だった。子どもの手に余る太くて固いホースに四苦八苦しながら、ぼくは両隣の家の芝生と自分の家の芝生をいつも見比べていた。

隣の芝生

隣の家の芝生は、いつも不思議なほど青く見える。

でもそれは当たり前の話で、隣の芝生は横から見ているせいで青い部分だけが見えるのに対して、自分の家の芝生は庭は真上から見下ろすために土が見えるのだ。

だから、隣の家から自分の家の芝生を見てみれば、やはり青く見える。



隣の芝生というのは、確かに青く見える。

でも、もしそうしたことがないのなら、実際に隣の家に行って自分の目でそれを確認してみることも、意外に重要なんじゃないかと思う。

常套句のように「隣の芝生は青く見えるものだ」と唱えて済ませていると、いつの間にか足下の芝生が枯れてきていることに気づかないことがある。

浅はかな子どもだったぼくは、水やりをごまかして(芝生の周辺の地面だけ濡らして水をやったふりをして)芝生を枯らしてしまった。

芝生が枯れてきていることにぼくはずいぶん長い間気づかなかった。

隣の芝生は、常にうちの芝生より青く見えていたから。

隣の芝生(2)



足下の芝生が枯れ始めていることに気づかないまま「隣の芝生は青く見える」と言いつづける人を見るのは、なかなかに切ないものだ。

これは、比喩だ。

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ひさしぶりのひとびと [Diary]

ひさしぶりに会う人。



元気になってる人。
大胆になってる人。
活躍してる人。
意外性の人。
相変わらず声が大きい人。
恨んでる人。
後悔してる人。
笑ってる人。
健康になってる人。
もう太ってない人。
変わってる人。
今さらあの話をする人。
恥ずかしそうな人。
踏みとどまってる人。
仕方ない人。
言い訳する人。
諦めた人。
まだ待ってる人。
先に進んだ人。
失った人。
偉そうになってる人。
空白の人。
成長してる人。
筋トレしてる人。
目をそらす人。
孫ができてる人。
なんかグローバル化した人。
自慢する人。
今でも時間を守れない人。
今でも人の話を聞かない人。
人のせいにする人。
バンダナ?
噂話をする人。
角が取れてる人。
最初から酒臭い人。



もう会わない人。
もう会えない人。

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『Piece shake Love』について2(配列と創作と構造) [Diary]

cover.jpg
『Piece shake Love』の話の続き。

「本書はアウトライナーの本ではありません」と書きました。でも、実はアウトライン・プロセッシングの実験という面があります。いや、そんなに大げさなことじゃないんですが。



ブログのセレクション本を作るにあたって決めたのは、「構造化しようとしない」ということです。

「構造」のことはいっさい考えず、「配列」として気持ちよくなるまでひたすらアウトラインを操作すること。

「構造化」というと大げさなら「分類」または「整理」と言いかえてもいいかもしれません。

たとえば、いちばん単純なのは公開時期による構造化です。これは2008年の記事、これは2009年の記事……という具合です。まあ、ブログ自体がもともとそういう構造をしてるので、これは構造化とも言えないわけですが。

同じ時間による構造化でも、書かれた(描かれた)時期による構造化もできます。これは学生時代の話、これは子どもの頃の話、これは現在の話……という具合。

内容による構造化もできます。これは理屈系、これは物語系、これは情緒系、これはエロ系みたいな。

で、人情として、うまく「構造化」できると気持ちよくなっちゃうのです。内容が「理解」できたような気がする。

でも、こうした作った構造に従って記事を並べてみても、面白くもなんともないし(←やったんじゃないか)。



で、いっさい構造化をしないことに決めました。

アウトライン・プロセッシングの5つの型で言えば、ソーティングだけを、ひたすら繰り返したことになります。

具体的には、テーマに合った記事を抽出し(最初の段階では84記事ありました)、それを気持ちいい順番に「配列」することだけを考えました。

最初は記事の配列をしていたのですが、通して読んでみるとまったくダメなので、途中から元の「記事」の枠を外すことにしました。

つまり、エピソードやフレーズを元の文脈から切り離して並べ替えてもいい。元記事の原型がなくなるくらい書き直したり切り落としたりしてもいい。

やっているうちに気づいたのは、これは実質的にはブログの記事を素材にした「創作」なのだということです。

もちろん、「実話」を書いてるつもりの記事だって、フレーズを選び、リズムを整えてる時点で厳密にいえば創作なわけですが。

それならばと、昔書いた黒歴史的創作の一部を組み込む。この段階で自分でも何の本なのかよくわからなくなったけど、気にせず続ける。

説明するな。
後から照れろ。



そんなことを延々と続けているうちに、やがて「これちょっといい感じかも、読んでて気持ちいいかも」という「配列」ができました。

とても不思議なことに、そこにはちゃんと「構造」がありました。「配列」だけを考え続けた結果、「構造」ができたわけです。

「構造化」しようとしたなら、決して生まれなかっただろう構造です。

後はいつもと同じようにトップダウン(構造の操作)とボトムアップ(個別のフレーズ)を行き来しながら加筆修正する、つまり〈シェイク〉するだけです。

結果として、細かいところはずいぶん変わりましたが、このときできた「構造」は、基本的には変わりませんでした。

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『Piece shake Love』について [Diary]

cover.jpg
11月18日に電子書籍『Piece shake Love』を地味に出版しました。KDPによるセルフ・パブリッシングです。

詳細と目次

Amazonで見る



本書はアウトライナーの本ではありません(というのも変な話ですが、まあ一応)。

正確にいうと「直接的には」アウトライナーの本ではありません。その辺はまた改めて書きます。



で、じゃあいったいなんの本なのかというと、とても困ってしまうわけですが、ストレートに書けば、Amazonの紹介文に書いた通り、過去にブログ「WordPiece」その他で公開した記事の中からセレクトしたものを、創作的に再構成したものです。

セレクトの基準となった単語は、本書のタイトルに含まれていますと、これもAmazonの紹介文で書きました。まあ、ここは自分のブログなのでもったいぶらずに書きますが、Loveです。愛です。

例によって、Amazonで「ジャンル」を決めなければならず、大変困りました。これは「エッセイ」なのか。それとも「創作」なのか。

まあ仕方ないので両方チェックしましたが、たぶん「エッセイ」でも「創作」でもありません。いちばん近い説明が、「ブログ記事(等)の創作的再構成」というものです。あるいは創作的シェイク(このブログを読んでくださってる方向けの説明)。



本当のジャンルは、「自分が読みたい本」です。そうとしか言いようがありません。これは倉下忠憲さんから拝借した言葉です。

これは自由を感じさせる言葉であると同時に、とても厳しい言葉でもあります。だって、自分で「これなら読みたい」と感じるものにならなければならないのです。そして、自分を誤魔化すことはできません。

そんなわけで、思っていたよりずっと時間がかかりました。



『アウトライナー実践入門』の作業が終わった後、諸事情で進捗70%で中断したままになっている『ライフ・アウトライン(仮)』の作業を再開する予定でした。

でも、なぜかブログ記事のセレクションを始めてしまいました。たぶん、アウトライナーについて考えすぎて、一時的に頭が飽和しちゃったんだと思います。

で、ちょっと息抜きも兼ねてアウトライナーじゃないことをやって9月中くらいに仕上げたらその後は『ライフ・アウトライン』がんばる、つもりでしたが、すべてのつもりがそうであるように、以下略。



(アウトライナー関係ではない)ブログ記事のセレクションというのは、いずれやってみたいことではありました。でも、優先順位としては高くありませんでした。だって、まあ、売れる見込みがアレだから。

でも、自分が過去に書いたものを読み返してみたとき(ふだんそういうことはほとんどしません)、この作業は今やらないと二度とできないかもしれない、という思いにとらわれました。

記事たちのうちのあるものが、自分にとって急速にリアリティを無くしつつあることに気づいたわけです。書いたときにはきわめてリアルだったにも関わらず。

「今現在」のことを書いたものが、時間の経過とともにリアルでなくなってくるのはわかります。でも、それらの記事は、書いた時点ですでに「昔」のことを書いていたのです。

自分にとっての「昔」が、それもかなり重要な「昔」が、変質し始めている。

端的に言えば、歳をとっているのです。

もちろん、まだ「老いる」年齢だと自分では思っていません。しかし自分にとっての過去(に対する見方)の変質は、変化をはっきりと示していました。少なくとも自分でそのように感じました。

そしてそれは、自分が想像していた「歳をとること」とはずいぶん違うものであり、うまく言葉にすることができないものでもありました。

過去記事を読み返しながら、考えたのはそんなことでした。

そしてふと、ならばセレクトした過去記事を(ある場合には解体して)再構成することで、その変化自体を形にしてみよう、と思いました。

それが、『Piece shake Love』の動機うちの、ひとつです。



ふむ。



たぶん、続きます。
(『ライフ・アウトライン』もちゃんとがんばります)

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間違いなく行きつけになる予定だった店 [Diary]

ときどき外でごはんを食べるというようなとき、頭の中には存在するのに、なかなか現実には存在しない理想の店というのがある。

いや、理想とは言っても、ひと昔前にはそういう店がそこら中にとまでは言わないけれど、あちこちにあったような気がする。

たとえば、その店は毎日お昼を食べるほど安くはないけれど、もちろん高すぎたりはしない。ファミリーレストランの日替わりランチでない標準メニューのどれかにドリンクバーをつけるよりは、少し安い。

たとえば、その店は客層が幅広くて老若男女いろんな人が来ているけれど、もちろん分煙だ。

たとえば、その店は長年の常連さんがたくさんいるけれど、排他的ではなく居心地がいい。

たとえば、その店の接客はフレンドリーでかつ馴れ馴れしくない。食べ終わった瞬間にホールの人が待ち構えていたようにやってきてお皿を片づけたりはしない。でも呼べばすぐに気がついてくれる。

たとえば、その店には大きな窓があって、運が良ければ窓際に座って人や車が行き交う様子を眺めることができる。店内は明るいけれど照明は強すぎない。

たとえば、その店の料理はもちろんおいしいけれど、鮮烈なとがったおいしさではなく、ひと口目は「まあ、こんなものかな」というくらい感じで、でも最後のひと口にしみじみ「うまい」と感じるようなタイプのおいしさだ。

たとえば、その店は気合いの入ったコーヒー専門店ではないけれど、ランチにもちゃんといれたての熱いコーヒーを出してくれる。

たとえば、その店は地元に根付いていて、その土地で生活している人々がその店でお茶を飲んだり食事をしたりすることにささやかな喜びを見出している様子が感じられる。



先々週の日曜日、はじめて入ってみたお店(Tomo.さんが見つけてきた)は、まさにここに書いた通りの店だった。

「求めてたのはこれなんだよ!」と思わず叫びそうになるような。

決して遠くにあるわけではないけれど、どういうわけか今まで開拓してみようとは思わなかった駅前に、その店は30年以上前からあったのだ。

ふたりとも、ちょっとやそっとのことで店を気に入ったりしないので、本当に好きで通っているような店は数件しかない。でもその店は、これから間違いなく行きつけになると確信させてくれるような店だった。

そんな店を見つけたのは、本当にひさしぶりのことだ。

でも同時に見つけたのは「当店は諸事情のため、11月末をもって閉店することになりました。長年のご愛顧ありがとうございました」という張り紙だった。

うん。

その「諸事情」という言葉の中に、こういう店がなかなかない、もしくは急速に減りつつある理由が集約されているのだろう。

とても繁盛している様子だったけど、残念だ。

そんなわけで、間違いなく行きつけの店になる予定だったその店に行けるのはあと1回か2回だ。

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休みについて [Diary]

ここでいう「休み」とは「休日」という意味ではなく、文字どおり「休養」という意味。



「休む」というのは、自分の頭と心を休めることによって、この先も生きていく(ちょうたいへん!)ための体力と気力とモチベーションを復活させることだ。

だから、飲みに行くとか、パチンコに行くとか、競輪に行くとか、懐かしいけど憎むべき昭和の概念「家族サービス」をするとかはもちろん、(たとえば)勉強会に出るとか、(たとえば)ブログを書くとか、(たとえば)プログラミングをするとか、(たとえば)普段できない家事を分担するとか、(たとえば)ミッションステートメントを書くとか、そういうもう少しモダンなあり方だって、有益な休日の過ごし方の一例ではあるけれど(そして良いことではあるけれど)、本来の意味での「休み」にはなっていない。

現代の生活で、本当に「休む」ことは考えれば考えるほど極めて難しい。そのサイクルの中にいると、「休む」ということが本来どういう意味なのか、容易に忘れてしまう(ひょっとすると、何十年も休んだことがない上にそのことに気づいていない人だっているかもしれないよ?)。



先週の週末は、隣駅の近くにある、ずっと行きたいと話していたカフェにTomo.さんと行った。

コーヒーもケーキもおいしかったけど(またしても、ドトールの味に慣れきった舌に鮮烈な刺激)、何よりよかったのは、その店には大きな窓があって、一方からは行き交う電車が、もう一方からは隣にあるお寺の境内の緑が見えることだ。

Macも持っていたし文庫本も持っていたけど、気がつけばそのいずれもテーブルに出すことなく、一時間くらいぼんやりと窓から風景を眺めていた。Tomo.さんも最初は本を読んでいたけど、後半は同じように窓からの景色を眺めていた。

そして、ときどきは生活に根ざしたクリティカルな会話を。

その一時間は、ここのところ次々に降りかかってくる、アンナコトやコンナコトにまつわる痺れるような疲れを取るには充分とは言えなかったけど、確かに「休養」をした実感があった。



だから今日もふたりで同じカフェに行った。
そして先週より少し多めのクリティカルな会話を。

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電車 [Diary]

たまたま乗り合わせたわたしの人生とあなたの人生が、同じ箱に乗って運ばれている。

あなたがどこから来てどこに行くのかわたしは知らないし、わたしがどこから来てどこに行くのかあなたは知らない。

決して交わることはない。

でも、今は膝と膝が触れ合うくらいの距離で並んで座っていたり、向かい合って何かの拍子に一瞬目があったりしている。

たまらなく自由で孤独でエロい。

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夏の知的生産&ブログ祭り [Diary]

前回書いた通り、昨日(2016年8月28日)はLifehacking.jp:夏の知的生産&ブログ祭りというイベントに登壇者として参加させていただきました。

会社員としてのそれは別にして、こういう場でプレゼンするというのは初めての経験です。なかなかに緊張しましたが(ひとみしらー)、なんとか無事に終了してよかったよかった。

でも、感想ツイートもたくさんいただき、それを読んでると話を聞いていただいてるのが手に取るように伝わってきます。これはとてもうれしいものです。

それだけに、もっとプレゼンうまくなりたいねーとめずらしく思いました。でもまあ、よかった。



内容的には、多くの場合誤解されているアウトライナーの特性、その特性を活かした技法の例(シェイク)とアウトライナーに馴染みのない方を意識した話が3分の2を占めてたんですが、最後の3分の1でアウトライナー的に見た「断片」の動きという話をしました。

この話は今までちゃんと書いたことがなく、「なんのこっちゃ」な反応を半ば覚悟していたんですが、感想ツイートでもけっこう反応をいただいていてほっとしています。

これは、以前ここに思いつきで書いたまま放置していた「フローラップ」についてきちんと説明することを目指したものです。

まだ説明としては不完全だと思うので、もう少し詰めた上でどこかできちんと書いてみたいですね。



で、ぼくが最初、続いて倉下さん、最後に堀さんがお話しされたんですが、おふたりのプレゼンがまたすごかった。

なんといっても、両者とも「断片」というキーワードについて語ってるのです。

倉下さんのそれは予想してたんですが(チラ見せスライドにも「断片」というキーワードがありましたからね)、堀さんまでとは思いませんでした。

なんと、ぼくと倉下さんが「断片」について話したのを聞きながら、直前に内容を追加されたということです(なんでそんなことができるんだ……)。

当然ながら、知的生産における「断片」の考え方の共通点と違いが浮き彫りになりました。

そして、その違いが期せずして「断片」に当てる英単語に現れているのも面白い。ぼくはpieceだったのですが、倉下さんはfragment、堀さんはparticle。

それぞれの説明を壇上で聞きながらゾクゾクしてました。



イベント後半の「ブログ」についてのトークもとても刺激的でした。

堀さんが司会進行をされたんですが、まあ、他の2人が噛み合わないというか、クセがあるというか、司会として困ったのではないかと想像しつつ、でもこの噛み合わなさが面白かったのではないかと個人的には思っています。

(そしてここでもそれを受け止めてくれる堀さんの懐の深さを感じました)



いろいろ書きたいことがありますが、今日のところはこのくらいにしておきます。

とにかく、このような機会を設けてくださった堀さんと倉下さんに感謝。

以下は、当日のTak.担当分スライドです。


当日の感想ツイートをまとめていただいたものです。
「夏の知的生産とブログ祭り」まとめ(堀さん)
夏の知的生産&ブログ祭り #シン・ライフハック祭り ツイートまとめ(ぱうぜさん)

倉下さんによる記事とスライドです。
「夏の知的生産とブログ祭り」で使用したスライドをご紹介

堀さんによる記事とスライドです。
知的生産とそのアウトプット先としてのブログの個性の作り方について #シン・ライフハック祭り

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鮮烈な平凡と総合的な満足 [Diary]

先週の土曜日は休むことにしたので(自主)、Tomo.さんの発案で電車で30分ほどの距離にある、降りたことのない駅前の、行ったことのない商店街に出かけた。

特に用事はない。

シャッターが閉ざされたかつての個人商店と、その跡地に入ったチェーン店が目にはつくけど、いちおうはまだ生きているアーケード商店街。

その中ほどにある、昭和50年代にはありふれていたはずの、でも今となっては貴重なたたずまいの喫茶店に入り、ナポリタンを食べてアイスコーヒーを飲んだ。

薄暗い店内。くすんだ(もしくは煙草のヤニの染みついた)の壁。4人がけの木製テーブルと同じく木製の(妙に豪華なたたずまいの)椅子。20年くらいそこに置かれていそうな観葉植物。

Macよりも原稿用紙が似合いそうでいて、カジュアル。商店街を見下ろせる窓際の席に、若き日の新井素子さんが座っていそうなと言えば伝わるような伝わらないような。

壁には柱時計とキーコーヒーの不思議なポスター。こういうポスターがわざわざ店に配られる(?)のも不思議だけど、店がそれを律儀に貼るのも不思議。そして不思議であるという印象だけが残り、どんなポスターかは覚えていない。

再発見したのは、BGMがないことがこんなにも落ち着くということ。他はひとり客がばかりだから、話し声も聞こえない。

かといって静まりかえっているわけではなく、店の奥からはずっとテレビの音が聞こえている(もちろんそれは高校野球中継だ)。

ドトールの味に慣れきってしまった舌に意外なほど鮮烈な印象を残す、(おそらく)キーコーヒーの標準ブレンド。

そして、仮に味を5段階評価するなら「3」だろうけど、頭に思い描き期待したものが期待したとおりに出てきたことと、付属のサラダの惜しみない量が高く評価されるナポリタン。

一時間半ほど(それぞれ勝手に本を読みながら)過ごした後、商店街を端から端までぶらぶらと歩いた。

最初の喫茶店の筋向かいにあった個人経営の普通のパン屋さんで、期待した通りの普通の食パンを買った。

帰りがけにのぞいた駅前の中くらいの規模の書店に、『アウトライナー実践入門』が2冊置かれていた。

総合的に満足して帰った。

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