So-net無料ブログ作成
検索選択

川と電車とカップ麺の作られたかもしれない記憶 [Diary]

三歳か四歳ぐらいのころ、父の自転車の後ろに乗せられて川沿いのサイクリング道をずっと上流まで遡っていったことがある。

どこまでも上流を目指して走り続け、いっこうに止まる気配がなくて、このまま家に帰れなくなるんじゃないかといい加減怖くなった頃、サイクリング道の脇に立つ小さな小屋の前で、父はようやく自転車を停めた。

それは売店だった。

すだれがかかっていて、薄暗い店内にお菓子(かっぱえびせんとかカールとか)が並べられた棚と瓶入りジュース(缶入りではない)の自動販売機と雪印アイスクリームの冷蔵ケースがあった気がするけれど、四歳児がそこまで詳細に記憶しているはずはないから、作られた記憶かもしれない。

そこでカップ麺を買って、売店のおばちゃんにお湯を注いでもらって、ベンチに腰かけて川を眺めながら食べた。プラスチックの透明なフォークを使った気がする。

そのカップ麺は日清カップヌードルではなく、ずっと背の低い、ちょうど雪印アイスクリームが入ってるような扁平なカップだった気がするのだが、そんなカップ麺を見た記憶はその後一度もないから、作られた記憶かもしれない。

いずれにしても、それはぼくが人生で最初に食べたカップ麺だった。そしておそらく父にとってもそうだったのではないかと思う。

それは1972年か73年頃のはずで、日清カップヌードルが発売されたのは1971年だから、そうであってもおかしくはない。

それに、三分待って蓋を剥がすときの父の表情が、後にはじめて「マクドナルド」なるもので「ビッグマック」なるものを買ってきて銀色の包み紙を剥がすときと同じだったから。

川はゆったりと流れ、対岸の線路を古めかしいチョコレート色の電車が通り過ぎていった。

家を出てからずいぶん時間がたった気がしたけれど、陽はまだまだ高かった。川面は強い日差しを反射してきらきら光り、堤防の斜面に茂る背の高い草と、その向こうに広がる畑の緑は濃かった。

だから、季節は夏だったのだと思う。

でも暑かった記憶はないし、蚊に刺された記憶もないし、何より夏のサイクリングの休憩にカップラーメンを屋外で食べるというのも変な気がする。だから、作られた記憶かもしれない。

帰り道、父の自転車の後ろでぼくは眠くて眠くて、何度も眠り込んで転げ落ちそうになった。

家にはなかなか着かなかった。道沿いに本屋を見つけるたびに、父は自転車を停めた。父は本屋の前を素通りするということができない人だった。

そのうちのひとつで、父が文庫本の棚を難しい顔で物色している間、ぼくは「サザエさん」の本を眺めていた気がするのだが、当時の四歳児が「サザエさん」を知っているはずはおそらくないので、作られた記憶かもしれない。



カップ麺を食べながら眺めた線路がどの辺りだったのかは、今ではほぼ特定できる。JR横浜線が鶴見川の右岸に沿って走る小机駅から鴨居駅にかけての区間だ。

去年、ちょっと気分転換に、いつもの散歩コースの終点から適当に乗ったバスの終点で、ぼくはそのことを発見した。

そこには川があり、堤防の上には遊歩道もある(サイクリング道ではないようだ)。周辺には大きなマンションや工場が建ち並んでいるけれど、それでも意外なほど多くの畑が残り、夏には川沿いの緑も深い。

堤防の上から、対岸の横浜線の線路が見える。今ではそこを走るのはチョコレート色の重そうな73系ではなく、ステンレスにグリーンの帯を巻いたE233系だ。それでも、川との位置関係も、線路がカーブしながら離れていく感じも、長いこと記憶していた通りだ。

だから、父の自転車で行った川と電車とカップ麺の記憶は、少なくとも総合的には作られたものではないはずだ。

コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

マジなりたくねー40代問題 [Diary]

電車の中で
「40代とかになってみっともなく生きてるくらいなら若いうちに死んだ方がマシだと思う」
「そうだな」
という挑発的な会話を展開している学生二人組。



これこれ、そんなこと言うもんじゃありません。



「みっともなく生きている」かどうかは年齢じゃなく君自身が決めるんだぜ。



焼鮭弁当と焼き肉弁当を持って夕方の電車に乗る40代はみっともないかみっともなくないか問題の解明が待たれる。



少なくともおばちゃん達が手作りしている最高においしいお弁当屋さんを知っている、東急5050系の滑らかな加速を楽しむことを知っている、走行中の電車から河川敷にいる猫を見つけられる、かつて年上にモテたけど今やすっかり周囲に年上がいなくなったけど尊敬できる年下の友人が何人かいる、飽きない結婚20年目の、とか言ってるうちにけっこう残り少ない40代。



「40代とかマジなりたくねーし」
「生活感とか出てきたら終わりだよな」



生活感が魅力的じゃなかったら、生きてて楽しくないと思うな。



生活とは「生きる活動」のことだし、その結果として身にまとう「感」がどんなものになるかは人によって違う。そしてそれは「今」と確実につながっている。



魅力的な生活感を身にまとう責任を負っているような気がする40代。



学生のうちのひとりが、途中から乗ってきたお年寄りに、迷いなく当たり前に自然な身のこなしで「どうぞ」と席を譲る。



そう、マジなりたくねー40代になるかどうかは、その日々の「生きる活動」の蓄積で決まるんだ。



健闘を祈る。

コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

成長すると良いでしょう [Diary]

「成長」について考えている。

ビジネスの成長とか経済成長とかアウトラインの成長(!)とかではなく、文字どおり人間として「成長」することについて。

(おそらく)過労とストレスで体調を崩したぼくに対して、Y先生は言った。

「人生には辛いことが多いです。それは当たり前のことですから、そのようなことの影響を受けないよう、より一層成長すると良いでしょう」

日本語が少し不思議な感じなのは、Y先生が台湾の人だからだ。

この歳になって、フツーの人にそんなことを言われてもふふんと思うだけだけど、Y先生は違う。こんな(ある意味陳腐でさえある)言葉を、これほどの説得力と重みを持って口にできる人は、そんなにはいない。

Y先生から見たら、ぼくなんか本当に未熟なのだろう。

だから、素直にその言葉を受け止めた。

それ以来、体調を回復するべく徐行運転しながら、「成長」について考えている。

「成長」するとは、どうなることなのだろう。

コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

桜の森の満開のタクシー [Diary]

去年の今ごろ、父を病院に送り迎えするタクシーの中から、たくさんの桜を見た。

満開の桜について会話ができる。それだけのことにずいぶん救われた。

桜はもちろん公園にある。
それから学校、河川敷。
そして工場。

そう、工場の敷地には、意外なほど多くの桜が植えられているのだ。

実家は京浜工業地帯のど真ん中にある。たくさんの工場がある。そこに桜が咲くことを、この歳になるまでぼくは知らなかった。

「工場には、桜がたくさんある」

タクシーの中で、父がそのことを指摘した。

父からの最後の指摘だ。

コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

隣の芝生2017 [Diary]

以前の職場の後輩から「転職経験が豊富だから」という理由で転職に関する相談を受けた。

でもぼくは、みんなの想像しているような、いわゆる「転職」をしたことは今まで一度もない(イメージに反して)。残念ながら、具体的にアドバイスできることは何もない。



「やっぱり隣の芝生って青く見えるんですかね?」と彼は言う。



自分の経験からも、職場の上司や同僚と「離職」「転職」について会話を交わすシチュエーションがあれば、必ずと言っていいほど出てくるフレーズが「隣の芝生は青く見える」というものだ。主に、転職を止める/阻止する立場の人によって口にされる。

「隣の芝生」の話だったら、ちょっとできる。



隣の芝生というのは、確かに青く見える。これは比喩ではなく、実際の芝生の話だ。

昔も書いたことがあるけど、子どもの頃住んでいた家の前庭は芝生だった。芝生に水をやるのはぼくの仕事だった。子どもの手に余る太くて固いホースに四苦八苦しながら、ぼくは両隣の家の芝生と自分の家の芝生をいつも見比べていた。

隣の芝生

隣の家の芝生は、いつも不思議なほど青く見える。

でもそれは当たり前の話で、隣の芝生は横から見ているせいで青い部分だけが見えるのに対して、自分の家の芝生は庭は真上から見下ろすために土が見えるのだ。

だから、隣の家から自分の家の芝生を見てみれば、やはり青く見える。



隣の芝生というのは、確かに青く見える。

でも、もしそうしたことがないのなら、実際に隣の家に行って自分の目でそれを確認してみることも、意外に重要なんじゃないかと思う。

常套句のように「隣の芝生は青く見えるものだ」と唱えて済ませていると、いつの間にか足下の芝生が枯れてきていることに気づかないことがある。

浅はかな子どもだったぼくは、水やりをごまかして(芝生の周辺の地面だけ濡らして水をやったふりをして)芝生を枯らしてしまった。

芝生が枯れてきていることにぼくはずいぶん長い間気づかなかった。

隣の芝生は、常にうちの芝生より青く見えていたから。

隣の芝生(2)



足下の芝生が枯れ始めていることに気づかないまま「隣の芝生は青く見える」と言いつづける人を見るのは、なかなかに切ないものだ。

これは、比喩だ。

コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

ひさしぶりのひとびと [Diary]

ひさしぶりに会う人。



元気になってる人。
大胆になってる人。
活躍してる人。
意外性の人。
相変わらず声が大きい人。
恨んでる人。
後悔してる人。
笑ってる人。
健康になってる人。
もう太ってない人。
変わってる人。
今さらあの話をする人。
恥ずかしそうな人。
踏みとどまってる人。
仕方ない人。
言い訳する人。
諦めた人。
まだ待ってる人。
先に進んだ人。
失った人。
偉そうになってる人。
空白の人。
成長してる人。
筋トレしてる人。
目をそらす人。
孫ができてる人。
なんかグローバル化した人。
自慢する人。
今でも時間を守れない人。
今でも人の話を聞かない人。
人のせいにする人。
バンダナ?
噂話をする人。
角が取れてる人。
最初から酒臭い人。



もう会わない人。
もう会えない人。

コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

『Piece shake Love』について2(配列と創作と構造) [Diary]

cover.jpg
『Piece shake Love』の話の続き。

「本書はアウトライナーの本ではありません」と書きました。でも、実はアウトライン・プロセッシングの実験という面があります。いや、そんなに大げさなことじゃないんですが。



ブログのセレクション本を作るにあたって決めたのは、「構造化しようとしない」ということです。

「構造」のことはいっさい考えず、「配列」として気持ちよくなるまでひたすらアウトラインを操作すること。

「構造化」というと大げさなら「分類」または「整理」と言いかえてもいいかもしれません。

たとえば、いちばん単純なのは公開時期による構造化です。これは2008年の記事、これは2009年の記事……という具合です。まあ、ブログ自体がもともとそういう構造をしてるので、これは構造化とも言えないわけですが。

同じ時間による構造化でも、書かれた(描かれた)時期による構造化もできます。これは学生時代の話、これは子どもの頃の話、これは現在の話……という具合。

内容による構造化もできます。これは理屈系、これは物語系、これは情緒系、これはエロ系みたいな。

で、人情として、うまく「構造化」できると気持ちよくなっちゃうのです。内容が「理解」できたような気がする。

でも、こうした作った構造に従って記事を並べてみても、面白くもなんともないし(←やったんじゃないか)。



で、いっさい構造化をしないことに決めました。

アウトライン・プロセッシングの5つの型で言えば、ソーティングだけを、ひたすら繰り返したことになります。

具体的には、テーマに合った記事を抽出し(最初の段階では84記事ありました)、それを気持ちいい順番に「配列」することだけを考えました。

最初は記事の配列をしていたのですが、通して読んでみるとまったくダメなので、途中から元の「記事」の枠を外すことにしました。

つまり、エピソードやフレーズを元の文脈から切り離して並べ替えてもいい。元記事の原型がなくなるくらい書き直したり切り落としたりしてもいい。

やっているうちに気づいたのは、これは実質的にはブログの記事を素材にした「創作」なのだということです。

もちろん、「実話」を書いてるつもりの記事だって、フレーズを選び、リズムを整えてる時点で厳密にいえば創作なわけですが。

それならばと、昔書いた黒歴史的創作の一部を組み込む。この段階で自分でも何の本なのかよくわからなくなったけど、気にせず続ける。

説明するな。
後から照れろ。



そんなことを延々と続けているうちに、やがて「これちょっといい感じかも、読んでて気持ちいいかも」という「配列」ができました。

とても不思議なことに、そこにはちゃんと「構造」がありました。「配列」だけを考え続けた結果、「構造」ができたわけです。

「構造化」しようとしたなら、決して生まれなかっただろう構造です。

後はいつもと同じようにトップダウン(構造の操作)とボトムアップ(個別のフレーズ)を行き来しながら加筆修正する、つまり〈シェイク〉するだけです。

結果として、細かいところはずいぶん変わりましたが、このときできた「構造」は、基本的には変わりませんでした。

コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

『Piece shake Love』について [Diary]

cover.jpg
11月18日に電子書籍『Piece shake Love』を地味に出版しました。KDPによるセルフ・パブリッシングです。

詳細と目次

Amazonで見る



本書はアウトライナーの本ではありません(というのも変な話ですが、まあ一応)。

正確にいうと「直接的には」アウトライナーの本ではありません。その辺はまた改めて書きます。



で、じゃあいったいなんの本なのかというと、とても困ってしまうわけですが、ストレートに書けば、Amazonの紹介文に書いた通り、過去にブログ「WordPiece」その他で公開した記事の中からセレクトしたものを、創作的に再構成したものです。

セレクトの基準となった単語は、本書のタイトルに含まれていますと、これもAmazonの紹介文で書きました。まあ、ここは自分のブログなのでもったいぶらずに書きますが、Loveです。愛です。

例によって、Amazonで「ジャンル」を決めなければならず、大変困りました。これは「エッセイ」なのか。それとも「創作」なのか。

まあ仕方ないので両方チェックしましたが、たぶん「エッセイ」でも「創作」でもありません。いちばん近い説明が、「ブログ記事(等)の創作的再構成」というものです。あるいは創作的シェイク(このブログを読んでくださってる方向けの説明)。



本当のジャンルは、「自分が読みたい本」です。そうとしか言いようがありません。これは倉下忠憲さんから拝借した言葉です。

これは自由を感じさせる言葉であると同時に、とても厳しい言葉でもあります。だって、自分で「これなら読みたい」と感じるものにならなければならないのです。そして、自分を誤魔化すことはできません。

そんなわけで、思っていたよりずっと時間がかかりました。



『アウトライナー実践入門』の作業が終わった後、諸事情で進捗70%で中断したままになっている『ライフ・アウトライン(仮)』の作業を再開する予定でした。

でも、なぜかブログ記事のセレクションを始めてしまいました。たぶん、アウトライナーについて考えすぎて、一時的に頭が飽和しちゃったんだと思います。

で、ちょっと息抜きも兼ねてアウトライナーじゃないことをやって9月中くらいに仕上げたらその後は『ライフ・アウトライン』がんばる、つもりでしたが、すべてのつもりがそうであるように、以下略。



(アウトライナー関係ではない)ブログ記事のセレクションというのは、いずれやってみたいことではありました。でも、優先順位としては高くありませんでした。だって、まあ、売れる見込みがアレだから。

でも、自分が過去に書いたものを読み返してみたとき(ふだんそういうことはほとんどしません)、この作業は今やらないと二度とできないかもしれない、という思いにとらわれました。

記事たちのうちのあるものが、自分にとって急速にリアリティを無くしつつあることに気づいたわけです。書いたときにはきわめてリアルだったにも関わらず。

「今現在」のことを書いたものが、時間の経過とともにリアルでなくなってくるのはわかります。でも、それらの記事は、書いた時点ですでに「昔」のことを書いていたのです。

自分にとっての「昔」が、それもかなり重要な「昔」が、変質し始めている。

端的に言えば、歳をとっているのです。

もちろん、まだ「老いる」年齢だと自分では思っていません。しかし自分にとっての過去(に対する見方)の変質は、変化をはっきりと示していました。少なくとも自分でそのように感じました。

そしてそれは、自分が想像していた「歳をとること」とはずいぶん違うものであり、うまく言葉にすることができないものでもありました。

過去記事を読み返しながら、考えたのはそんなことでした。

そしてふと、ならばセレクトした過去記事を(ある場合には解体して)再構成することで、その変化自体を形にしてみよう、と思いました。

それが、『Piece shake Love』の動機うちの、ひとつです。



ふむ。



たぶん、続きます。
(『ライフ・アウトライン』もちゃんとがんばります)

コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

間違いなく行きつけになる予定だった店 [Diary]

ときどき外でごはんを食べるというようなとき、頭の中には存在するのに、なかなか現実には存在しない理想の店というのがある。

いや、理想とは言っても、ひと昔前にはそういう店がそこら中にとまでは言わないけれど、あちこちにあったような気がする。

たとえば、その店は毎日お昼を食べるほど安くはないけれど、もちろん高すぎたりはしない。ファミリーレストランの日替わりランチでない標準メニューのどれかにドリンクバーをつけるよりは、少し安い。

たとえば、その店は客層が幅広くて老若男女いろんな人が来ているけれど、もちろん分煙だ。

たとえば、その店は長年の常連さんがたくさんいるけれど、排他的ではなく居心地がいい。

たとえば、その店の接客はフレンドリーでかつ馴れ馴れしくない。食べ終わった瞬間にホールの人が待ち構えていたようにやってきてお皿を片づけたりはしない。でも呼べばすぐに気がついてくれる。

たとえば、その店には大きな窓があって、運が良ければ窓際に座って人や車が行き交う様子を眺めることができる。店内は明るいけれど照明は強すぎない。

たとえば、その店の料理はもちろんおいしいけれど、鮮烈なとがったおいしさではなく、ひと口目は「まあ、こんなものかな」というくらい感じで、でも最後のひと口にしみじみ「うまい」と感じるようなタイプのおいしさだ。

たとえば、その店は気合いの入ったコーヒー専門店ではないけれど、ランチにもちゃんといれたての熱いコーヒーを出してくれる。

たとえば、その店は地元に根付いていて、その土地で生活している人々がその店でお茶を飲んだり食事をしたりすることにささやかな喜びを見出している様子が感じられる。



先々週の日曜日、はじめて入ってみたお店(Tomo.さんが見つけてきた)は、まさにここに書いた通りの店だった。

「求めてたのはこれなんだよ!」と思わず叫びそうになるような。

決して遠くにあるわけではないけれど、どういうわけか今まで開拓してみようとは思わなかった駅前に、その店は30年以上前からあったのだ。

ふたりとも、ちょっとやそっとのことで店を気に入ったりしないので、本当に好きで通っているような店は数件しかない。でもその店は、これから間違いなく行きつけになると確信させてくれるような店だった。

そんな店を見つけたのは、本当にひさしぶりのことだ。

でも同時に見つけたのは「当店は諸事情のため、11月末をもって閉店することになりました。長年のご愛顧ありがとうございました」という張り紙だった。

うん。

その「諸事情」という言葉の中に、こういう店がなかなかない、もしくは急速に減りつつある理由が集約されているのだろう。

とても繁盛している様子だったけど、残念だ。

そんなわけで、間違いなく行きつけの店になる予定だったその店に行けるのはあと1回か2回だ。

コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

休みについて [Diary]

ここでいう「休み」とは「休日」という意味ではなく、文字どおり「休養」という意味。



「休む」というのは、自分の頭と心を休めることによって、この先も生きていく(ちょうたいへん!)ための体力と気力とモチベーションを復活させることだ。

だから、飲みに行くとか、パチンコに行くとか、競輪に行くとか、懐かしいけど憎むべき昭和の概念「家族サービス」をするとかはもちろん、(たとえば)勉強会に出るとか、(たとえば)ブログを書くとか、(たとえば)プログラミングをするとか、(たとえば)普段できない家事を分担するとか、(たとえば)ミッションステートメントを書くとか、そういうもう少しモダンなあり方だって、有益な休日の過ごし方の一例ではあるけれど(そして良いことではあるけれど)、本来の意味での「休み」にはなっていない。

現代の生活で、本当に「休む」ことは考えれば考えるほど極めて難しい。そのサイクルの中にいると、「休む」ということが本来どういう意味なのか、容易に忘れてしまう(ひょっとすると、何十年も休んだことがない上にそのことに気づいていない人だっているかもしれないよ?)。



先週の週末は、隣駅の近くにある、ずっと行きたいと話していたカフェにTomo.さんと行った。

コーヒーもケーキもおいしかったけど(またしても、ドトールの味に慣れきった舌に鮮烈な刺激)、何よりよかったのは、その店には大きな窓があって、一方からは行き交う電車が、もう一方からは隣にあるお寺の境内の緑が見えることだ。

Macも持っていたし文庫本も持っていたけど、気がつけばそのいずれもテーブルに出すことなく、一時間くらいぼんやりと窓から風景を眺めていた。Tomo.さんも最初は本を読んでいたけど、後半は同じように窓からの景色を眺めていた。

そして、ときどきは生活に根ざしたクリティカルな会話を。

その一時間は、ここのところ次々に降りかかってくる、アンナコトやコンナコトにまつわる痺れるような疲れを取るには充分とは言えなかったけど、確かに「休養」をした実感があった。



だから今日もふたりで同じカフェに行った。
そして先週より少し多めのクリティカルな会話を。

コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感