So-net無料ブログ作成
検索選択

間違いなく行きつけになる予定だった店 [Diary]

ときどき外でごはんを食べるというようなとき、頭の中には存在するのに、なかなか現実には存在しない理想の店というのがある。

いや、理想とは言っても、ひと昔前にはそういう店がそこら中にとまでは言わないけれど、あちこちにあったような気がする。

たとえば、その店は毎日お昼を食べるほど安くはないけれど、もちろん高すぎたりはしない。ファミリーレストランの日替わりランチでない標準メニューのどれかにドリンクバーをつけるよりは、少し安い。

たとえば、その店は客層が幅広くて老若男女いろんな人が来ているけれど、もちろん分煙だ。

たとえば、その店は長年の常連さんがたくさんいるけれど、排他的ではなく居心地がいい。

たとえば、その店の接客はフレンドリーでかつ馴れ馴れしくない。食べ終わった瞬間にホールの人が待ち構えていたようにやってきてお皿を片づけたりはしない。でも呼べばすぐに気がついてくれる。

たとえば、その店には大きな窓があって、運が良ければ窓際に座って人や車が行き交う様子を眺めることができる。店内は明るいけれど照明は強すぎない。

たとえば、その店の料理はもちろんおいしいけれど、鮮烈なとがったおいしさではなく、ひと口目は「まあ、こんなものかな」というくらい感じで、でも最後のひと口にしみじみ「うまい」と感じるようなタイプのおいしさだ。

たとえば、その店は気合いの入ったコーヒー専門店ではないけれど、ランチにもちゃんといれたての熱いコーヒーを出してくれる。

たとえば、その店は地元に根付いていて、その土地で生活している人々がその店でお茶を飲んだり食事をしたりすることにささやかな喜びを見出している様子が感じられる。



先々週の日曜日、はじめて入ってみたお店(Tomo.さんが見つけてきた)は、まさにここに書いた通りの店だった。

「求めてたのはこれなんだよ!」と思わず叫びそうになるような。

決して遠くにあるわけではないけれど、どういうわけか今まで開拓してみようとは思わなかった駅前に、その店は30年以上前からあったのだ。

ふたりとも、ちょっとやそっとのことで店を気に入ったりしないので、本当に好きで通っているような店は数件しかない。でもその店は、これから間違いなく行きつけになると確信させてくれるような店だった。

そんな店を見つけたのは、本当にひさしぶりのことだ。

でも同時に見つけたのは「当店は諸事情のため、11月末をもって閉店することになりました。長年のご愛顧ありがとうございました」という張り紙だった。

うん。

その「諸事情」という言葉の中に、こういう店がなかなかない、もしくは急速に減りつつある理由が集約されているのだろう。

とても繁盛している様子だったけど、残念だ。

そんなわけで、間違いなく行きつけの店になる予定だったその店に行けるのはあと1回か2回だ。

コメント(0) 

ぜんぶ頭に入れるから [Thoughts]

書こうとする文章が一定以上に長くなると、全体像を頭の中で組み立てることはできなくなる。

以前、倉下忠憲さんにインタビューさせてもらったときには、2000字くらいなら頭の中で組み立てられるけれど、4000字を超えると厳しくなってきて万単位になったら難しい、とおっしゃっていた。

ぼく自身は、400字を超えると心許なく、1000文字を超えるとまず無理。これはかなり短い方だと思うけど。

長さ自体よりも、要素間の関係が急速に複雑さを増すことが問題だ。

文字数が増えれば要素が増え、要素が増えれば要素間の関係が複雑になり、その一貫性・統一性を頭の中に保持しておくことは不可能になる。

どの地点に「頭の中で考えられる」限界があるかは人によるけれど、どこかに限界があることだけは間違いない。モーツァルトみたいな人は別として。

対策としては、「とりあえず書く」しかない。とりあえず書くことを格好良く表現した言葉が「下書き」や「ドラフト」だ。

とりあえず書いてみて、はじめて何をどう書けばいいのがわかる。より正確にいうと、何をどう書けばいいのか考える素材を手に入れることができる。

カードや付箋やアウトライナーは、素材を操作しやすくするツール、とも言える。



文章と同じで、やるべきことがあまりに複雑になると、頭の中は処理できなくなる。要素が増えれば要素間の関係が複雑になり、その一貫性・統一性を頭の中に保持しておくことは不可能になる。



ずっと昔勤めていた会社の上司は「書かない」人だった。

ぜんぶ頭に入れるからいい、という。

唯一の例外は能率手帳に書きとめるアポイントで、それすらも「頭に入ってるから書かなくてもいいんだけどね」と言う。

自分のやるべきことぐらい、ぜんぶ頭に入れられるようじゃなきゃダメだ、というのが口癖だった。

仕事をする上で、頭に入れておくべきことというのは、もちろんあると思う。でもね。

最初はとても驚いたのだが、後に上司と同世代で、同じようなことを言う人に何人か会って、もっと驚いた。

一般化はできないけれど、もしかすると「ぜんぶ頭に入れる」ことに価値を見出す(もっとはっきり言えば能力の指標とする)考え方が、かつてあったのかもしれない。

もちろん、上司はぼくより頭がいい。でも、今の時代の仕事の、量と速度と要素間の関係の複雑さからすれば、当然限界はある。

限界点が多少高いか低いかの違いだ。



作業Aをやるためには作業Bができていることが必要で、作業BをやるためにはC社の承認が必要で、でもC社は作業Aの完成を待って判断するつもりで、あらら無限ループだ。そしてC社からは、なぜAがまだできていないんだとクレームが入っている。

相互に依存しあう物ごとが同時に動いていて、しかも時系列的な依存関係と立場上の依存関係が一致していない。状況は見た目よりもずっとずっと複雑だ。

だから、大判のポストイットに要素を書き出して、並べ替えて、どうすればいいか考える(残念ながら、その会社でアウトライナーを使うことは不可能だった)。

まず手順を。
そしてC社への説明を。
失敗したときのリカバー策を。

作業の計画ができる。
なんとか間に合うだろうぎりぎりのスケジュール。
上司に報告する。

スケジュールひとつ決めるのにいつまでかかってるんだと言いながら、上司はスケジュールに目を通す。そして「ここは3日じゃなくて2日でいこう」と言う。

それをすると、万一作業Bで問題が生じたときにリカバーできなくなって、より致命的な事態になる可能性がある、とぼくは言う。

「あ、そうかもな」と上司は言う。



上司は「ぜんぶ頭に入って」いたのだろうか。

わからない。

わからないけど、ひとつ言えるのは、これは90年代半ばの話であり、その量も速度も複雑さも「今」から見れば古き良き時代のそれだったということだ。

そして、どんなに頭が良くても、量と速度と要素間の関係の複雑さに対しては、当然限界はあるということだ。



「複雑なものを複雑なまま理解するのではなく、複雑なことをクリアに」(通りすがりの男)
「クリアとは単純という意味ではない」(通りすがりの男の弟)

コメント(0) 

アウトライナーについての2つの質問 [アウトライナー]

『アウトライナー実践入門』で、ぱうぜさん(@kfpause)こと横田明美先生にインタビューさせてもらった縁で、千葉大学アカデミック・リンク・センター主催の「あかりんアワー」という学内イベントに登壇してきました。

イベントといっても、毎週火・金曜日のお昼に、同大図書館に併設されたプレゼンテーションスペースで開催される、こぢんまりした定期イベントです。

タイトルは「論文をシェイクする〜アウトライナーのすすめ」。30分のうち、ぼくがお話ししたのは約15分で、後はぱうぜさんによる説明、そして質疑応答でした。

メインのオーディエンスが学生、しかも4年生が卒論を本格的に書き始めるシーズンということで、「シェイク」の話を中心に、レポートや卒論に少し寄せた感じで話をしました。

アウトラインを先に作ってから文章を書くのではなく、トップダウン(アウトライン)とボトムアップ(詳細)を行き来しながらアウトラインを育てていく、という話。

時間が短いこともあって、本の中で紹介したような「実例」は見せられなかったのですが、そこはばうぜさんの「学生の卒論のアウトライン」や、ご自身が勉強に使った情報カード(超貴重)など、貴重な現物の紹介でカバーしてもらいました。

終了後に何人かの先生や、熱心な学生さんとお話させてもらい、これはとても嬉しかったです。

で、アウトライナーに関するとても良い質問をいくつかいただいたので、2つ紹介しつつ、現場では話しきれなかったことも含めて回答してみます。



Q1)
課題などで、比較的短い、字数制限(1200字とか2000字とか)のある文章を書く機会があります。こうした場合のアウトライナーの使い方って、あるでしょうか?(※質問のニュアンスがちょっと違ったらごめんなさい)

A1)
これ、実はぼく自身得意ではありません。なので、得意でない人間がアウトライナーでそれをカバーする方法として見てくださいね。

文字数が定められているときって、どうやってその文字数を稼ぐかという問題と、どうやってその文字数に収めるかという問題の2つがあると思います。で、この質問で問題になってるのは後者でしょう。

もし、与えられたテーマについてどうしても1200文字書けないとしたら、アウトライナーの使い方とは別の問題があるはずです。

なので、ここではどうやって字数に収めるかということを考えます。

文字数制限に慣れていない場合は、字数のことはあまり考えずにとにかく書いてしまうのがいちばん楽です。

最初から1200字に収めようとせず、2000字とか2500字になってもかまわないので、とにかく書いてしまう。導入部と結論部も一応つけておきます。

だいたい形になったら、読み返しながら見出しをつけて、アウトライン化します(細かめに見出しを付けるのがコツです)。

見出しをつけたらアウトラインを折りたたみ、見出しだけ眺めながら、優先度が低いと思われる項目を削っていきます(すぐに削除せず、末尾に「未使用」という見出しを立てて、その下に落としていくと後で後悔しません)。

優先度が低いとは、決して重要度が低いという意味ではなく、与えられた内容とスペースにそぐわないもの、という意味です。あと、同じくらいの大きさのネタが2つ入っていたりした場合、片方を削るということもあるでしょう。

制限に収まるまで削ったら、全体の流れに齟齬が生じていないかどうか確認しつつ、細部を整えて仕上げます。

手書きと違って、1200字と2000字に、それほど労力の差はありません。個人的には、書きながら同時に字数を収めようとするよりも、この方がずっと楽です(ただし限度はあります。10000字になるまで書き続けてはいけません)。

もちろん、書き慣れてくれば、1200字だとだいたいこんな感じかな、と当たりをつけることができるようになります。また、そういう訓練をすることは役に立つと思います。

ちなみに、Wordのアウトラインモードだと、アウトラインを折りたたんだ状態で項目を選択すると、下位に含まれる文字数がステータスバーに表示されるので便利です(何も選択しないと、アウトライン全体の文字数が表示されます)。


Q2)
自分はアウトラインを作ることも、アウトラインに沿って書いていくことも比較的得意なのですが、ときどきアウトラインに縛られて、アウトラインに書かれたことしか書けない感じがすることがあります。そういうときはどうすればいいですか?(※またまた、質問のニュアンスが違ってたらごめんなさい)

A2)
アウトラインの縛りから抜け出すためにいちばんいいのは、いったんアウトラインの外に出ることです。

作ったアウトラインは脇に置いておいて、真っ白い画面に書いてみる。

アウトラインが作れるくらいだから、テーマや関連する知識は頭に入っているはずです。

だから、アウトラインを見ないで頭の中身だけで自由に書いてみる。構成は考えず、抑制せず、気持ちよく、テーマについて自由に書けることを書く。これをフリーライティングといいます。

アウトラインはアウトラインでちゃんと残してあるので、いくら自由に書いてみても大丈夫です。

しばらくフリーライティングしてみた後で、書き出した内容に見出しを立て、既存のアウトラインの中で該当すると思う部分に振り分けてみます(必ずコピーを取ってください)。

そのとき、もし既存のアウトラインに収まらない断片があったら、それがアウトラインの縛りから抜け出すヒントになります。

どれだけ精密にアウトラインを作っていても、アウトラインを見ずに自由に書いてみると、何かしらアウトラインに収まらない内容が出てくるものです。

使える内容だと思ったら、その内容に絞って更にフリーライティングしてもいいし、その内容を組み込めるようアウトラインを修正してもいいでしょう。

自分でも、これがブレイクスルーになった経験が何回もあります。



いかがでしょうか。回答になってるといいのですが。といいつつ、以上はもちろん「アウトライナーの使い方の一例」であり、唯一の回答ではありません。



「あかりんアワー」当日は冷たい雨、その上電車が遅延し(向かう方向の電車が次々に止まっていくという悪夢)、どうなることかと思いましたが、なんとかギリギリで間に合いました。

1時間前に着くように出ていた俺、えらい。

案内してもらった千葉大の図書館はとても素敵な場所で、思わず「ここで仕事がしたい」と思ったり。

うん、楽しかった。

コメント(0) 

測ろうとすれば価値は伸び縮みする [Thoughts]

さんざん元の文章をひねくって、
だんだん元とは違うものになってきて、
でも気に入らなくて、
さらにさんざんひねくって、
気がつくと元の文章にとても近いものに戻っている。

ひと月かかって付け加えたところは、
ほとんど無駄だったということになる。

でも、ひとつだけ、
元の文章にはなかったフレーズが残っている。
さんざんひねくったひと月の時間と労力がなければ
存在しなかったフレーズ。



「うん、時間と労力というのはそういうふうに使うものだよ」(通りすがりの男A)



「そのフレーズは、費やされた時間と労力に見合った価値のあるものなんだな?」(通りすがりの男B)



測ろうとすれば価値は伸び縮みする。

でもたぶん、そのフレーズを残して先に進むことにした、そのこと自体に答えはある。

コメント(0) 

アウトライン・プロセッシングが教えてくれること [アウトライナー]

アウトライン・プロセッシングは、単なる「文章作法」ではない。

アウトライン・プロセッシングの技法は、文章を書くためにとても有効なだけでなく、人生のいろんな場面で「考える」ことにほとんどそのまま使えるからだ。

そして、文章を書くためのアウトライン・プロセッシングの技法が教えてくれることは、本当にたくさんある。



たとえば、あらかじめ作ったアウトラインに沿って文章を書こうとしても、たいていうまくいかない。何をどう書くべきかは書いてみてはじめてわかるからだ。だから、アウトラインは書きながら変えていかなければならない。

書きながら変えていくことで、アウトラインは初めて有効な道具になる。そしてそれをサポートする道具がアウトライナーだ。

同じように、あらかじめ作ったアウトラインに沿って生きようとしてもたいていうまくいかない。どう生きるべきかは、生きてみてはじめてわかるからだ。だから、アウトラインは生きながら変えていかなければならない。



「あらかじめ作ったアウトラインに沿って生きようとする」なんていうと「?」と思うかもしれない。それは一般的には別の言葉で呼ばれている。

たとえば「計画」や「プラン」。
あるいは「ミッション」や「価値観」。
あるいは「夢」や「目標」。
あるいは「教えられてきたこと」や「学んできたこと」。

もちろん、そういうものには意味がある。

ただそれは、日々の現実、予期しない出来事、この瞬間の気持ち、そして何よりも日々生きる中での自分の変化「シェイク」することで、はじめて意味を持つ。

日々の現実を生きながら思いついたことや考えたことをフィードバックし、アウトラインを常に組み替えること。組み替えた新しいアウトラインに沿って生きること。そしてまた思いついたことをフィードバックし、アウトラインを組み替えること。アウトラインと現実を常にリンクしておくこと



古くなったアウトラインにしばられて身動きが取れなくなっている人を見かけると、とても悲しくなる。いや、そんなこと言ってる自分だって、ふと気づけばそうなっていることがある。

アウトラインは常に「仮」のものであること。それが、アウトライン・プロセッシングが教えてくれるいちばん大切なことだ。

コメント(0) 

休みについて [Diary]

ここでいう「休み」とは「休日」という意味ではなく、文字どおり「休養」という意味。



「休む」というのは、自分の頭と心を休めることによって、この先も生きていく(ちょうたいへん!)ための体力と気力とモチベーションを復活させることだ。

だから、飲みに行くとか、パチンコに行くとか、競輪に行くとか、懐かしいけど憎むべき昭和の概念「家族サービス」をするとかはもちろん、(たとえば)勉強会に出るとか、(たとえば)ブログを書くとか、(たとえば)プログラミングをするとか、(たとえば)普段できない家事を分担するとか、(たとえば)ミッションステートメントを書くとか、そういうもう少しモダンなあり方だって、有益な休日の過ごし方の一例ではあるけれど(そして良いことではあるけれど)、本来の意味での「休み」にはなっていない。

現代の生活で、本当に「休む」ことは考えれば考えるほど極めて難しい。そのサイクルの中にいると、「休む」ということが本来どういう意味なのか、容易に忘れてしまう(ひょっとすると、何十年も休んだことがない上にそのことに気づいていない人だっているかもしれないよ?)。



先週の週末は、隣駅の近くにある、ずっと行きたいと話していたカフェにTomo.さんと行った。

コーヒーもケーキもおいしかったけど(またしても、ドトールの味に慣れきった舌に鮮烈な刺激)、何よりよかったのは、その店には大きな窓があって、一方からは行き交う電車が、もう一方からは隣にあるお寺の境内の緑が見えることだ。

Macも持っていたし文庫本も持っていたけど、気がつけばそのいずれもテーブルに出すことなく、一時間くらいぼんやりと窓から風景を眺めていた。Tomo.さんも最初は本を読んでいたけど、後半は同じように窓からの景色を眺めていた。

そして、ときどきは生活に根ざしたクリティカルな会話を。

その一時間は、ここのところ次々に降りかかってくる、アンナコトやコンナコトにまつわる痺れるような疲れを取るには充分とは言えなかったけど、確かに「休養」をした実感があった。



だから今日もふたりで同じカフェに行った。
そして先週より少し多めのクリティカルな会話を。

コメント(0) 

電車 [Diary]

たまたま乗り合わせたわたしの人生とあなたの人生が、同じ箱に乗って運ばれている。

あなたがどこから来てどこに行くのかわたしは知らないし、わたしがどこから来てどこに行くのかあなたは知らない。

決して交わることはない。

でも、今は膝と膝が触れ合うくらいの距離で並んで座っていたり、向かい合って何かの拍子に一瞬目があったりしている。

たまらなく自由で孤独でエロい。

コメント(0) 

アウトラインと目次 [アウトライナー]

『アウトライナー実践入門』の中で少しだけ触れ、先日のイベント「夏の知的生産&ブログ祭り」でのプレゼンでもちらっと出てきた、「アウトライン」と「目次」との関係について。



アウトライン・プロセッシングに慣れていない人が、文章を書くためにアウトライナーを使おうとすると、ほとんど必ずと言っていいほど「目次案」を作ってしまう。文章を書くことに慣れている人ほど、そうかもしれない。

でも、いろんなところで書いてる通り、アウトラインは決して「目次案」ではない。そして、アウトライナーで文章を書く作業とは、アウトラインを元に文章を書くことではない。

とはいえ、「アウトライン」と「目次」は見た目上よく似ている(すごーく似ている)。そして、世の中では、「目次案」や「構成案」というものがすでに市民権を得ている。誤解が生じるのも無理はない。

その上ややこしいことに、アウトラインと目次が一致する瞬間も、確かにあるのだ。



「アウトライン」とは、書き手がその上で「考える」ためのものだ。つまり「書き手のためのもの」だ。一方の「目次」は、読み手をナビゲートするためのガイドだ。つまり「読み手のためのもの」だ。

これが両者の違いだ。

アウトライナーの中で、発想の断片は集合離反しつつ成長し、最終的なアウトプットへと育っていく。

このプロセスを「アウトラインの性質」という観点から見ると、書き手のための「アウトライン」から、読み手のための「目次」へと、徐々に接近していく過程と捉えることができる。

頭に浮かんだこと、流れていくことを、アウトライナー上に自由に書き出す。

リスティングし、グルーピングし、ブレイクダウンし、レベルアップし、ソーティングしながら「考える」。思考を形にし、あるいは理解しようと試みる。「アウトライン」というカタチ(そしてアウトラインの折り畳みと入れ替えというアウトライナーの機能)が、この作業の助けになる。

やがて、それを人に伝える段階がくる。形にした思考が人に伝わるように、流れを工夫し、魅力的な語り口を考える。その過程で、アウトラインは書き手が考えるためのものから、読み手の理解を助けるためのものへと変化していく。最後には「目次」と完全に一致するはずだ。

(実際には、読み手のための「語り口」の影響を受けて新しいことを思いついちゃったりするので、この流れは一方通行ではないけれど)



長い文章を書く時、ぼくは作業の前半(発想〜ドラフト)にはWorkFlowyやOmniOutlinerのようなプロセス型アウトライナーを使い、後半はWordなどのプロダクト型アウトライナーを使うことが多い。

これは、上記のプロセスにそのまま対応している。アウトラインが一定以上「目次」へと接近した後に有効なのが、プロダクト型アウトライナーなのだ。そして、この段階でのプロダクト型アウトライナーは、極めて強力だ(信じない人がいるかもしれないけど、Wordは正しく使えば役に立つ)。

(プロセス型アウトライナーとは、「見出し」の概念がなく、階層関係だけで構造を表現するアウトライナー。プロダクト型アウトライナーとは、文書の「見出し」とアウトラインが対応しているアウトライナー。詳しくはこちらの記事を参照)



以上の話は、あくまでもアウトライナーを中心として考えているけど、「書き手が考えるためのガイド」から「読者をナビゲートするための目次」への接近という観点から、いろんなツール(たとえばUlyssesやScrivener)について考えてみると面白いかもしれない。

自らに対する脳内でのささやかな称賛 [Thoughts]

何か問題や課題を抱えているとき、いつも頭の中で「そうじゃないやり方があるはずだ」とつぶやいているような気がする。

あまりにも当たり前でほとんど意識することもないけど、たぶん子どもの頃から。

「人と同じことはしたくない」とか「常識を疑ってみる」などと言えばすごくかっこいいけど、そういうのとはちょっと違う。

もっとずっと余裕がなくて、切実なニュアンスを持ったフレーズだ。

それは、昔から「普通(とされる)のやり方」や「指示されるやり方」にどうしても適応できなかったり、違和感があったりしたことと対応している。

つまり、元々はネガティブな感覚だった。

でも、最近気づいたのは、「そうじゃないやり方がきっとあるはずで、それを見つけなければならない」という感覚自体が、自分にとって何かを考えたり、前に進めようとしたりするモチベーションになってきたということだ。

「そうじゃないやり方があるはずだ」という言葉に伴う感覚は、人生のある時点で少しだけポジティブなものに変化した。心の中で起こったほんの小さなニュアンスの変化だけど、結果は小さくはない。

それがなかったら、生きることは今よりずいぶん(より一層)難しくなっていた気がする。

変化のきっかけが何かは知っているけど、誰にも言わない。ただそこに自分の「意志」が関わっていることについて、自らに対する脳内でのささやかな称賛を惜しまない。

夏の知的生産&ブログ祭り [Diary]

前回書いた通り、昨日(2016年8月28日)はLifehacking.jp:夏の知的生産&ブログ祭りというイベントに登壇者として参加させていただきました。

会社員としてのそれは別にして、こういう場でプレゼンするというのは初めての経験です。なかなかに緊張しましたが(ひとみしらー)、なんとか無事に終了してよかったよかった。

でも、感想ツイートもたくさんいただき、それを読んでると話を聞いていただいてるのが手に取るように伝わってきます。これはとてもうれしいものです。

それだけに、もっとプレゼンうまくなりたいねーとめずらしく思いました。でもまあ、よかった。



内容的には、多くの場合誤解されているアウトライナーの特性、その特性を活かした技法の例(シェイク)とアウトライナーに馴染みのない方を意識した話が3分の2を占めてたんですが、最後の3分の1でアウトライナー的に見た「断片」の動きという話をしました。

この話は今までちゃんと書いたことがなく、「なんのこっちゃ」な反応を半ば覚悟していたんですが、感想ツイートでもけっこう反応をいただいていてほっとしています。

これは、以前ここに思いつきで書いたまま放置していた「フローラップ」についてきちんと説明することを目指したものです。

まだ説明としては不完全だと思うので、もう少し詰めた上でどこかできちんと書いてみたいですね。



で、ぼくが最初、続いて倉下さん、最後に堀さんがお話しされたんですが、おふたりのプレゼンがまたすごかった。

なんといっても、両者とも「断片」というキーワードについて語ってるのです。

倉下さんのそれは予想してたんですが(チラ見せスライドにも「断片」というキーワードがありましたからね)、堀さんまでとは思いませんでした。

なんと、ぼくと倉下さんが「断片」について話したのを聞きながら、直前に内容を追加されたということです(なんでそんなことができるんだ……)。

当然ながら、知的生産における「断片」の考え方の共通点と違いが浮き彫りになりました。

そして、その違いが期せずして「断片」に当てる英単語に現れているのも面白い。ぼくはpieceだったのですが、倉下さんはfragment、堀さんはparticle。

それぞれの説明を壇上で聞きながらゾクゾクしてました。



イベント後半の「ブログ」についてのトークもとても刺激的でした。

堀さんが司会進行をされたんですが、まあ、他の2人が噛み合わないというか、クセがあるというか、司会として困ったのではないかと想像しつつ、でもこの噛み合わなさが面白かったのではないかと個人的には思っています。

(そしてここでもそれを受け止めてくれる堀さんの懐の深さを感じました)



いろいろ書きたいことがありますが、今日のところはこのくらいにしておきます。

とにかく、このような機会を設けてくださった堀さんと倉下さんに感謝。

以下は、当日のTak.担当分スライドです。


当日の感想ツイートをまとめていただいたものです。
「夏の知的生産とブログ祭り」まとめ(堀さん)
夏の知的生産&ブログ祭り #シン・ライフハック祭り ツイートまとめ(ぱうぜさん)

倉下さんによる記事とスライドです。
「夏の知的生産とブログ祭り」で使用したスライドをご紹介

堀さんによる記事とスライドです。
知的生産とそのアウトプット先としてのブログの個性の作り方について #シン・ライフハック祭り