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空気と世間と帰国子女 [Thoughts]

鴻上尚史「『空気』と『世間』」について、全体として強く共感しながらも違和感を感じる部分があったと書きましたが、それがいったい何なのか、最近ずっと考えていました。

たぶん、それは書いてあることが間違ってるということではなく(間違っていないと思います)、おそらく個人的なことから来ています。

たとえば「帰国子女」について触れた部分があります。
クラスのまとまりがまだ強固だった時代、「班と連帯責任」という考え方はゆるぎないものでした。 このシステムに抗議し続けたのは、「個人」であることをずっと求められて育った「帰国子女」だけでした。 小学校が特徴的ですが、何人かで「班」を作り、班の中の誰かが宿題を忘れたり、問題を起こすと、班全体の連帯責任にする、という古典的な教育方法がありました(あります)。 班の一人でも、例えば漢字試験に合格しなければ、班全体の責任になる。 ——中略—— けれど、一人の失敗で班全体が怒られた時に、「それは彼の失敗であって、私の失敗ではない。どうして、私は怒られるのか?」というしごくまっとうな疑問を「世間」の外で育った帰国子女は持ったのです。 (鴻上尚史「『空気』と『世間』」p.163-p.164)

ぼくはいわゆる「帰国子女」ですが(そして、帰国子女が急激に増加して学校現場で問題になり始めた時期の帰国子女ですが)、自分はこんなふうに異議や疑問を唱えただろうか? ここがヘンだよ日本人、と主張しただろうか?

そんなことはなく、自分はむしろ「集団の内側の人」になろうとして悪戦苦闘した記憶しかありません。

当時はそんな風には思っていなかったけれど、そのことで、自分の中の何かをずいぶん歪めてしまったような気がするし、その歪みは大人になってからもずっと続き、ある意味で自分は今でもその影響下にあると思います。

鴻上さんの言う通り、日本の学校でもっとも理解できなかったもののひとつは「班行動」と「連帯責任」でした。

でもそれは「異議を唱える」という感じではなく、「ただ理解できなくておろおろする」というのに近いものでした。周囲は次にどう動くのか、自分が次にどうするべきなのか、それさえ想像がつかないのに、間違えてはいけない、という感覚だけはひしひしと伝わってきました。決して「こんなのはおかしい。非論理的だ」と言って済ませられる状況ではありませんでした。

帰国子女が集団の外に立って、「それはおかしいよね、意味ないよね」と疑問あるいは異議を唱えたというのは、一部の例か、あるいはステレオタイプです。

この「わからなさ」は「母国」に帰ってきたはずの自分としては、けっこうショッキングなことだったし、「母国」に受け入れられるためにどうすればいいのか、子供心にかなり必死に考えたわけです。

その中で次第に身につけていった生きる術みたいなものがあり、それは表面的に適応を早めてくれたかもしれませんが、それが自分の何かを大きくゆがめたような気がするし、自分は今でもその影響下にあると思います。

ある意味では帰国子女(=外からやってきた、外のシステムを身に付けた人間)だからこそ、集団の内側に入ろうとしたときに、集団(この場合は学校)がはらむ問題点を、よりストレートに、まともにかぶることになる、と個人的には考えています。

まだまだうまく言えませんが、違和感というのは、たぶんそういうことです。少なくともその一部は。
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