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書店の平穏な日々の最後の客 [Diary]

結婚したばかりの頃、3か月間だけ都内のアパートに住んでいた。

準備も何もなく短期間で劇的に環境が変わり(突然結婚、突然就職、突然大学院休学、突然実家から出る、突然初めての他人との生活、体調崩す)、あんまり甘い新婚さん的な感じではなかった。というかじたばたしていた。

その期間の記憶は断片的にしかない。都心の職場まで通う地下鉄の構内とか、気晴らしにひとりで自転車に乗って出かけた公園の風景とか、通勤途中に赤坂見附で見かけた女優の坂井真紀さんとか。

結局、体勢を立て直すために短期間で引っ越すことになったのだけど(その引っ越した先に今でも住んでいる)。



その時期の楽しみは、仕事帰りに地元の商店街の書店に立ち寄ることだった。

その書店は「町の本屋さん」としてはかなり大きい方で、岩波とかも揃っていて、しかも23時まで開いていた。つまり、かなりがんばっている本屋さんだった。

いろんなことがうまくいかなくても、紙の匂いと微かな黴臭さと古い空調の匂いが混ざったような昔ながらの「書店の空気」の匂いを嗅げば、5%くらいは忘れることができる(そしてそういう匂いのする書店は当時既に貴重だった)。

まして素敵な本を見つけられれば、少しの希望だって。



その日も仕事帰り、閉店間際の書店に入った。

その書店はBGMを流さなかったので「蛍の光」とかは流れてなかったけど(好ましい)、おじさんはもうレジを開けて売り上げを数え始めていた。

雑誌を何冊かめくり(書店の匂いを吸い込み)、ぶらぶらと店内を一周し(書店の匂いを吸い込み)、新書コーナーに仕事で必要な本が積まれているのを見つけて(書店の匂いを吸い込み)、レジに持っていった。「MacPower」も買おうかどうしようか迷って買わなかった。

おじさんは本にカバーをかけ、ゴムをかけ、「はい、どうもね」と言って渡してくれた。

書店を出て、筋向かい酒屋の自動販売機で缶ビールを一本買った(当時はまだ酒類を自販機で買うことができた)。後ろでおじさんがシャッターを閉める音が聞こえた。

アパートに帰って少し二人で話をしてシャワーを浴びてビールを飲んで、やっぱり「MacPower」も買えばよかったなと思いながら寝た。



書店が火事で全焼したことを知ったのは、翌朝の出勤途中だった。

商店街の手前からすでに焦げ臭い匂いが漂い、現場には立ち入り規制の黄色いテープが貼られ、書店は炭化した柱を残して跡形もなくなっていた(そのうえ、両隣の商店にまで延焼していた)。

そういえば夜中にたくさんの消防車がけたたましく通りすぎて目が覚め、どこだろうね、近そうだねと話していたのだった。

並んでいた本や雑誌や文庫本の表紙、小学館の学習雑誌ののぼり、レジ脇に置かれた夜間金庫の入金袋、発注用のスリップなどはみんな燃えてしまったのだなと思い、それからおじさんの「はい、どうもね」という声を思い出し、それからおじさんは無事だったのだろうかと思い、それからあの匂いは無くなってしまったんだなと思った。

それから自分はその書店の平穏な日々の最後の客だったんだなと。



そのすぐ後に、ぼくと妻は横浜に引っ越した。会社からもらった結婚祝い金(というのがあった)は引っ越し費用で使ってしまった。

全焼した書店がどうなったのかいつか確認しようと思いつつ、もうすぐ20年になる。

簡単にいえば、3か月だけ暮らしたその街のことを特に思い出したいと思わなかったし、思い出している余裕もなかった。

でも、その書店で買った本の何冊かは、今でも本棚に入っている。

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