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やっぱりOPALから離れられないのか [アウトライナー]

以前も書いたことがある「最強のアウトライナー」TAOの後継ソフトNeOを購入して、1週間試用(※NeOは機能も見た目も思想もTAOをほぼそのまま引き継いで、最新のMacOSに対応したものです)。

相変わらすのすさまじい多機能ぶりだけど、自分の環境だと以前のTAOよりも動作は安定している印象(以前TAOの利用を止めた理由のひとつに動作の不安定さとバグの多さがあったけど、今回はそういう印象は受けなかった)。

でも、前回のTAOと同じく1週間でOPALに戻った。やっぱりOPALからは離れられないみたいだ。



今って7割〜8割くらいのところまでOPALで書いてJeditで仕上げするんだけど、本当なら全てアウトライナーの中で完結させたいという願望がある。そのためにOPALが欠いているのがトピック同士を結合させる機能。

個人的に、こういうブログエントリみたいな「あんまりアウトラインぽくない」文章を書くときって、通常なら読点を打つくらいの断片をアウトラインの1トピックにしてキーボードで入れ替え操作をする。(→スクリーンショット)

だから仕上げ段階でバラバラの断片をセンテンスまたはパラグラフとして結合することが絶対必要なんだけど(特にぼくは段落ごとに一行あけるスタイルを多用するので)、そのための機能がOPALにはない。それさえあれば、最後の仕上げまでOPALの中で完結させられるんだけど(もしかしたらAutomatorとか使ってJeditと組み合わせたりすればできるかもしれないけど、そのあたり追求してる余裕はない)。

つまり、OPALは素晴らしいアウトライナー=アウトラインエディタではあるけど、文章エディタではない。

理想はかつてのMOREのようにアウトライナーであり、かつ文章エディタとしての機能を持っていること。

TAO/NeOはその機能を持っているし、他にも今のアウトライナーから失われてしまったかつてのMORE、Grand ViewといったLiving Videotext社系のアウトライナー香りを現代に伝えていて、見ていてワクワクするのね(Living Videotextはあのデイブ・ワイナーが80年代に経営していた会社です)。

NeOでは安定性の問題がかなり解決されてるという印象を受けたんで、自分がアウトライナーに求めている要素をほぼ全て満たしていると言ってもいいかもしない。

でもやっぱりメインとして使い続けることができない。

それは麻薬的なシンプルさと透明感を持つOPALとの「使用感」の差としか表現できない。

クリアじゃない病 [Thoughts]

最近見聞きする世の中のいろんな問題も、個人的に感じてるいろんな問題も、多くの場合「クリアじゃない」というひと言で表現できるような気がする。

いちばん典型的なやつは「健康に直ちに影響はありません」だけど、政治家や官僚や財界人の言葉がクリアじゃないのは、(残念だけど)今に始まったことじゃない。

そうじゃなくて、今世の中全体に満ちあふれているクリアじゃなさ。敢えて核心に触れない、言葉にしない、クリアにしない態度は、ある時期までは日本(人)の美点でもあったかもしれないけど、今の日本のクリアじゃなさはそれとは違う、なんだか病的な域に入っている。

就活サイトでの「企業がリクルートスーツ不要と書いてるけど真に受けていいのでしょうか?」という質問のような。それに対する「そこであなたの常識が問われていると考えるべきです」という解答のような。

この間電車で耳にした「車内が暑くなっておりますので、冷房を使用させていただいております。何卒ご了承ください」という不思議な車内アナウンスのような。

メールの末尾に必ず「取り急ぎとはなりますが何卒ご了承くださいますようお願い申し上げます」という一行を入れる人のような。

いや、それを言えば自分だって使ってる「資料お送りさせていただきます」という言葉の「させていただく」という部分が我ながら謎なような。

文章で書けばものの数行で説明できる内容を、わざわざパワーポイントで図解しているこの時間と労力のような。

ほとんどのクライアントでクールビズが許容されることがわかっていながら「念のため」鞄の中に入ってるネクタイのような。

ひとつひとつはとてもつまんないことだけど、日々暮らしていく中で、この種のクリアじゃなさに無数に接し続けることが、人に与える影響をもっと意識した方がいい。

額面通りに受け取れない言葉とかルール、存在していることがわかるのに表に現れない気持ち、誰も幸せにしない仕事、やらなくてもいいはずだけどやっていること、とりあえず入れておくエクスキューズ。

そんなクリアじゃない物ごとが、人を消耗させ、傷つけ、エネルギーを奪い取る。そしてもちろん組織からも。

そして気がついてみたら、個人的に今興味を持っていることって、何らかの形でクリアになることや、クリアであることに関係している。自分の意思をクリアにしたり、それをストレートに実行したり、ストレートに言葉にしたり、ストレートに形にしたりすること。

これから自分たちが生きていくためには、そういうクリアさが絶対に必要だから。
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孤独と不安と恐怖と幸福 [Thoughts]

「幸福度」についてのニュースをぼんやり眺めていて、ふと1日の中で孤独も恐怖も不安も感じていない瞬間がどれくらいあるだろうと考えたら「たぶんあんまりない」という結論に達した。

そうか、自分は常に孤独か恐怖か不安を感じ続けているのか、もしかしたらそれは「不幸」なんじゃないだろうかと一瞬思ったけど、たぶん違う。

間違いなく自分は「不幸」じゃない。

「幸福度」を測る方法はわからないけど、孤独と不安と恐怖を常に感じながら、自分は「不幸」ではないと確信が持てるという、そのあたりに何かのヒントがあるんじゃないかという気がした。あるいは逆に、不幸でないにもかかわらず孤独と不安と恐怖を常に感じ続けている、というあたりに。

で、もちろん、今言われている「幸福の尺度」はどれもピンと来ない。まったく。
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押せばどこまでも広がる透明な壁 [Thoughts]

「強大な敵が目の前に立ちふさがっている」とかいう状況なら、自分がどんなふうにすればいいのかはおのずとわかる。闘うか逃げるかしかない。

でも、敵がすぐそこにいることが感じられるのに、その姿はどんよりとした雲の中に隠れていて、押しみても手応えがないし、そもそもどんな姿なのかもわからない。

しかし、放っておけばそいつに飲み込まれてしまうだろうということだけはひしひしと感じられる。そんなやつと、いったいどんなふうに闘ったらいいんだろう。

とか言ってるのはあくまでもプライベートな、個人的な問題についてだけど、それとは別に、今って誰もがそんな敵と対峙しているような感じがするのだよね。

大きいところでは放射性物質や政治の問題、小さいところでは職場で見聞きしたり感じたりする問題まで。そこに問題があることは明らかなのに、そしてそれをどうにかしなければならないことは明白なのに、具体的に何と闘っていいのかわからない、もやもやとした感じがすることが多い。

理詰めで追求しようとしても理屈が通らないし、破壊しようとしても実体がよくわからない。社会全体レベルから個人レベルまで、問題の多くにそれが当てはまるような気がする。



80年代に鴻上尚史が「天使は瞳を閉じて」で描いたのは「押せばどこまでも広がる透明な壁に囲まれた街」。どこまでも行くことはできるけど、壁の外に出ることだけはできない。80年代の状況をこれほど的確に表現した比喩は他になかったと思うけど、今の状況を同じように表現するとしたらどんな感じになるだろう、と最近よく考える。

かつて街を取り囲んでいた「押せばどこまでも広がる透明な壁」は、今は透明ではなく実体があり、目に見える形で街を取り囲んでいる。

壁の中で甘んじて暮らす人々が大多数を占める一方で、人々の一部は壁を壊さなければと考え、実際に行動を起こしている人もいる。

でも、目に見えているその壁とは別に、ひとりひとりの人間の周りにも壁がある。壁は透明で堅さも厚みもなく、押せばどこまでも広げていける。お互いの壁を介して他人とふれあうこともできる。でも、直接ふれあうことはできないし、直接声を聞くこともできない。

そして、かつての壁はシステムが創り出していた(と感じられた)けれども、いまはたぶんそうではない。

とかとか。少なくとも、今の自分にはそう感じられる。

そんな中でどんなふうに生きればいいのか、正直言ってよくわからないけど、たぶんクリアな欲望とクリアな思考とクリアな身体が絶対に必要だということは間違いない。



「天使は瞳を閉じて」は90年代以降も形を変えて何回か上演されてるし、そのときの内容を実は知らないんだけど…。今年「虚構の劇団」で「天使は瞳を閉じて」が再演されるので、そこで「壁」がどんなふうに描かれるのか、楽しみ。
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開拓 [Diary]

晩ごはんは、狭い行動圏の中で「健全な欲望」に基づいて新しいお店を開拓。

若い人ががんばってやってる感じの真面目なお店。禁煙・オーガニック。見た目入りにくいけど、居心地よかった。
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ラザニアと焼き野菜(おいしかった)。いろいろあって、焼き野菜は最近まで中断してたとのこと。努力しても思うようなものをお客さんに提供できない世の中…。
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コントロール幻想 [レオ・バボータ関連]

原文:Leo Babauta "The Illusion of Control" from Zen Habits
この記事はレオ・バボータさんがブログ「Zen Habits」でUncopyrighted(コピーライトなし)として公開されている記事の日本語訳です。原文同様、この日本語訳もUncopyrighted(コピーライトなし)とします。

自分が何かをコントロールしていると考えているとき、あなたは間違っている。

私たちが本当はコントロールできていないことをコントロールしているとしばしば考えているのは、驚くべきことだ。

以前から何度も書いているとおり、何かをコントロールするというのは幻想に過ぎない。

私たちは決して思い描いた通りにはならない計画を立て続ける。古い格言によれば「神に微笑んで欲しければ計画を立てろ」という。

私たちは目標を設定し、その目標につながる行動を取るよう訓練されている。にも関わらす、その目標がどれだけ実現するだろう?

5年前、あなたは今あるような世界を予想していただろうか——オバマが大統領になり、株式市場は崩壊し、景気後退は深刻で、地震と津波が襲い、あなたが今していることをしている、この世界を。

もちろんそんなはずはない。私たちは未来を知ることはできないし、ましてコントロールすることはできない。できると考えがちだが、本当にできた試しはない。

それにも関わらす、コントロール幻想を私たちは抱き続ける。混乱した複雑な世界を前に、どんな形ででもコントロールする方法を探し求める。

それは、こんなところに現れている。

子どもの育ち方をコントロールしようとする。まるで粘土で人形をつくるように。あるいは人間の複雑さが私たちの理解の範囲内に収まっているかのように。

日々の支出、エクササイズ、食べるもの、実行するタスク、サイトのアクセス数、歩いた歩数、走った距離まで、あらゆる小さなものごとを記録する。恣意的に取った記録が、最終的な結果に影響を与える数多くの複雑なファクターを捉えることが可能であるかのように。

従業員をコントロールしようとする。繰り返すが、彼らは私たちが理解していない様々な動機と気まぐれと習慣に基づいて動く複雑な人間存在だ。

プロジェクトや旅行や日々の計画やパーティを過度に計画しようとする。まるで結果的に起こる出来事が、自分自身の世界を操作する能力で動かせるかのように。

こうした幻想を捨てることができたとき、そこに何が残るのだろう? カオスとともにどのように生きていけばいいのだろう?

魚について考えてみよう。魚は自分自身にコントロールすることができない、海という混沌の中を泳いでいる。私たちの多くと同じだ。ただし、魚は私たちと違って海そのものや、海にいる他の魚をコントロールできるという幻想を持っていない。最終的に行き着く場所さえコントロールしようとしない。ただ泳ぐ。流れに乗っていくか、やってくる流れに対処するかだ。食べ、身を隠し、つがうけれども、何一つコントロールはしていない。

私たちは魚となんら変わるところはないが、私たちの思考が幻想の必要性を創り出しているのだ。

そんな思考は捨ててしまおう。魚になろう。

カオスのただ中にいるとき、それをコントロールするという必要性を捨てるのだ。カオスに浸り、その瞬間を体験し、結果をコントロールしようとせず、やってくる流れに対して行動するのだ。

そのように生きるにはどうすればいいだろう? いったん幻想を手放せば、そこには全く異なる生き方がある。

目標を設定することを止め、自分をエキサイトさせることをするようになる。

計画することを止めて、ただ行動するようになる。

将来を気にすることを止めて、この一瞬を生きるようになる。

他人をコントロールしようと試みることを止めて、ただ思いやることにフォーカスするようになる。

ある特定の結果を望み、それに向けて努力することよりも自分自身の価値を信じることが重要だと学ぶようになる。

最終的な成果と、そのために取るべき次の1000のステップを計画しようとするのではなく、自身の価値と情熱に導かれて、ひとつひとつのステップをバランスよく軽やかに、その瞬間に踏み出せるようになる

世界のあり方に苛立ち、ストレスを感じ、腹を立て、失望し、自分の望み通りに変えようとするのではなく、世界をあるがままに受け入れることを学ぶようになる。

結果に失望することはなくなる。なぜなら何も期待しないからだ。やってくるものを受け入れるだけだ。

これは受動的な生き方に思えるかもしれないし、私たちのアグレッシブな、生産的な、目標指向な文化のあり方と矛盾している。そのような生き方を受け入れることができなくても、それは構わない——多くの人がコントロール幻想の中で生きながら、彼らを不幸せや不満にさせている原因に気づかずにいるとしても、それは史上最悪の事態というわけではない。

しかし、このように生きることができれば……それはこの世でいちばん解放的なことではある。



レオ・バボータの電子書籍「Focus」の翻訳をRenji Talkで公開しています。
「フォーカス——雑音化時代を生きるためのシンプル化宣言」
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